【Japanese minimalist girl】 Spling wardrobe

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A powerful 7.3 magnitude earthquake struck a southern island in Japan.

Pray for them, and do our best.

If you can, lets less your possession.

Spling wardrobe

・Tops…5

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bottoms…5

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cardigan …5

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outer…1

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hat…1

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foot…3点

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accessory…11

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Thanks and up up days♡

Minami

《Book report》The Book of Tea, by Kazuo Okakura(Tenshion Okakura)

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My teacher recommend “The Book of Tea”

My teacher in Shin-geijyutsu School (New Art school) recommended “The book of Tea” for me to read. I started reading it and wished to write a blog about it.
It is an assignment given to everyone in the class.
I will be using the important points or lessons from the book as I write a blog about it.

Outline of this book

Kakuzo Okakura, who was known in America as a scholar, art critic, and Curator of Chinese and Japanese Art at the Boston Museum of Fine Arts, directed almost his entire adult life toward the preservation and reawakening of the Japanese national heritage — in art, ethics, social customs, and other areas of life — in the face of the Westernizing influences that were revolutionizing Japan around the turn of the century.
This modern classic is essentially an apology for Eastern traditions and feelings to the Western world — not in passionate, oversentimental terms, but with a charm and underlying toughness which clearly indicate some of the enduring differences between the Eastern and Western mind. Okakura exhibits the distinctive “personality” of the East through the philosophy of Teaism and the ancient Japanese tea ceremony. This ceremony is particularly revelatory of a conservative strain in Japanese culture; its ideals of aesthetic tranquility and submission to the ways of the past find no parallel in the major cultural motifs of the West.
Not only does he discuss the tea ceremony and its rigid formalities, and the cult and patterns of belief surrounding tea and tea-drinking, but Okakura also considers religious influences, origins, and history, and goes into the importance of flowers and floral arrangements in Japanese life — their proper appreciation and cultivation, great tea-masters of the past, the tea-room with its air of serenity and purity, and the aesthetic and quasi-religious values pervading all these activities and attitudes.
Okakura’s English style was graceful, yet exceptionally clear and precise, and this book is one of the most delightful essay-volumes to the English language. It has introduced hundreds of thousands of American readers to Japanese thinking and traditions. This new, corrected edition, complete with an illuminating preliminary essay on Okakura’s life and work, will provide an engrossing account for anyone interested in the current and central themes of Oriental life.

 

 Hide a beauty

As Charles Lamb said, “The greatest pleasure I know is to do a good action by stealth, and to have it found out by accident.” For the Way of Tea, “accepting one’s smallness and avoiding attachment to candid expression” is Tenshin’s idea of “beauty.”

From a modern perspective, humans are soiled by their lives in earthly society. The idea of distancing oneself from society and schooling and placing oneself in nature is has been passed down from Lao-tse to the tradition of Taoism.

Despite saying I am a minimalist and I don’t need “things”, I collect works of art. And without food I cannot live. This surely shows in what I write, the art that I produce and in my accessories too. What I own expresses my individuality. I both intend and do not intend this. This is written in Okakura Tenshin’s “Mono Ni Kanzureba Tsui Ni Ware Nashi.

 

p.192

The artwork has a its character. Okakura says that Grade and it becomes criteria of art critic.If we put the word of “Dignity” in other word to “Grade”,it turns to nonsense to discuss about the Person’s Dignity and the work’s Grade in the same topic.
However, artworks are both strange and mysterious organisms. AN author does not think at all of painting a work with personality or idiosyncrasies, yet the work ends up embodies by these very characteristics.
Perhaps accepting this contraction is heart of the world of beauty that pursues an ideal beyond this earthly realm.

To express oneself forcefully is not the way. One must keep one’s contradictions buried inside while also grasping and nurturing the “dignity” to be expressed. The Way of Tea is the art of hiding beauty to discover beauty – it purposely hints at an hesitation to express oneself.

 

Become the nature

p.072
Tea masters strive to become more than just artists, to become art itself.

For one’s way of life to be art in itself, say, by filling a simple cup of tea under a single roof, feels similar to the thinking of Dominique Loreau.

This is because the realization that people with such refinement exists in a world stained with vulgarity drives straight to the heart. Such a “mindless” and overwhelmingly romantic person is depicted in Sen no Rikyu’s final tea ceremony.

Minami KINTO


 

「茶の本」

本を手にとったきっかけ。

新芸術校の課題図書として手にとったのがきっかけ。

アウトプットをすることによって読書を自分に定着させるためにレポートを記しておく。

(ちなみに、「目の神殿」はAmazonでも取り寄せに3週間かかるので注意である。)

本のあらすじ

「茶の本」は最後の述作であり、天心円熟期の代表作として広く知られている。原名は“The Book of Tea”で、明治三十九(1906)年五月に刊行された。

茶は大昔から中国で薬として知られていた。四、五世紀、淹(だし)茶が愛飲され陸羽によって「茶経」が著述され、十世紀以降など時代によっては抹茶が流行してはすたれ、十七世紀に入ってオランダ、フランス、ロシア、イギリスなどの西洋諸国に相次いで輸入されて広まった。

茶の湯は茶の飲み方の形式の単なる理想にとどまらない。利己主義と俗悪に満ちた世俗にみを置いている私たちの「性」のー一種宗教に類するー「術」である。

天心は、英文による以外の述作を一切残しておらず、本書はまさに“岡倉天心著作集”であるといっていいであろう。(p.413 茶の本)

 Hide a beauty

隠すという美

チャールズ・ラムの述べた「密かに善行を施し、偶然に発覚すること、それが何よりの楽しみである」という言葉が茶道の奥義を伝えるならば、「自らの矮小さを認め、ズケズケと現すことばかりに執着しない」ことこそが、天心の言うところの「美」だ。

では現代に照らし合わせてみれば、人間は社会の俗世に汚れきっている。そのような会社や学校などからいったん離れて、自然のひろがりに身を置いてみようという考えが老荘思想から道教に受け継がれていった。

私はモノは要らないと言いつつ作品をコレクションし、且つ飯を食わないと生きていけない。これは、私が書く文章に、作る作品に、アクセサリー類に現れているだろう。私が持つモノにも私の個性が表出している。それをしようと私が思おうと思うまいと。「岡倉天心 物ニ観ズレバ竟ニ吾無シ」に、こう書かれている。

p.192

作品には作品としての「品性」がある。岡倉は、それを「品位」と呼んで、批評の基準の一つとして挙げてさえいた。「品位」を「気格」といいかえてみると、個人の「品位」と作品の「気格」は同次元において論じる必要性がないかのようにみえる。(略)だが、芸術作品は、不思議でかつ不気味な生きものである。作者の人柄や個性を作者はその作品に塗り込もうなどとまったく考えてもいないのに、その作品は、作者の人柄や個性、つまり品性をちゃんと表出している。

その矛盾を受け入れることこそが、俗世ではできない、理想を追求する美の世界でのこころのあり方ではないだろうか。

もちろん、わざと自分を出そうとするのは邪道である。自分の中の矛盾をうちに秘めながら、しかし表出する「品位」を見定め、向上させていかなければならない。茶道は美を発見するために美を隠す術であり、あえて現わすことを憚るようなものを仄めかす術だからである。

Religious and ordinary lifestyles

茶室という完璧な美のために俗世を離れる

茶室は茶人の為につくられる。茶人の好みによって活けられる花も掛け軸も変わる。茶室から入って出るまで、いったん俗世を捨てること。「いったん」というのは、茶室はテントのように建てられてからたたむことを前提に開かれるものだからだ。茶会は門を入るところから始まっている。飛び石に自然のあり方に従う法則に身を慣らし、にじり口を通って、聖域に入る。その都度入れ替えられた茶具、季節や客の好みを反映して工夫が施されている。茶人それぞれの為に作られた一点ものであるがゆえに、後世にのこることは本意では無い。むしろ、かりそめの姿であることこそが本来の姿だ。

水差しは中が空っぽであるからこそ、あらゆるものを受け入れ中に入れることができる無限の可能性を持っている。これが「虚」だ。

社会から離れ、自然に身を委ねようということ。

東洋の美は、永久にあることをよしとしない。花が最も尊いのは、寿命を全うすれば枯れるからだ。茶室からは、完璧で無いものを好む日本人の美意識や移り変わっていくものを大切に思う感性がうかがえる。

一度組み立てて、茶室をまた壊す。儚いものだ。

Become the nature

芸術そのものになるということ

p.072

茶の宗匠の説によれば、芸術を真に鑑賞することは、芸術から強い影響力を生み出す人にとってのみ可能である。そこで彼らは茶室の中で得た優雅な高い標準によって日々の生活を律しようと努めた。(略)かくて茶の宗匠たちは芸術家以上のものー即ち芸術そのものーになろうと努力した。

生き様が芸術そのものであるということは、たとえば一杯のお茶と屋根一つで満たされると言ったドミニック・ローホーの考えに近いように感じる。

“Smile at a foolishness”と、花が愚かしさに微笑んでいると言って、人と自然とを対等に置けるのも、人間が自然に身を委ね、自然もまた人間の作った茶道の中で輝くからこそ成り立つ絶妙なバランスの美学である。

自然をできるだけそのままに、芸術を真に鑑賞する為には日々の生活を律し芸術そのものに身を委ねること。それは、世俗から離脱し、矛盾を受け入れ、美そのものになろうと顔は涼しく、熱い想いで命を燃やす芸術家の心を強く奮い立たせる。それは、花について語る時のやりすぎなくらいのロマンチックさ、上品ながらも不倫しながらも、東洋の美が当然西洋と同じ価値があることに疑いを持たず居続けた天心の生き様が、世俗にまみれつつも、この様な気品ある人間が生きていたのだということが、胸を打つからだ。利休の最後の茶会を圧倒的なロマンチックさで書き上げ、ヒートアップし、最後の頂点のところで「茶の本」のしめとするのも、常に「夢中」な人だなという印象を持つ。

他人の目が気になる

そして興味深いのが、「他人の目が気になる」というやつを、先人も物悲しく思っているということだ。

p.57

小堀遠州についての話を思い出す。(略)「先生が利休以上に優れたご趣味をお持ちのことがわかります。と申しますのは、利休の収集品は千人に一人しかわかる者がいなかったからでございます」と彼らはいった。遠州は悲しげに答えていった。「これは私が如何にも平凡であることを証明しているにすぎない。偉大な利休は自分にだけ訴える物を愛する勇気があったが、私は知らず識らず多数の人々の趣味に迎合している。誠に利休は茶人の中でも千人にひとりの茶人であった。」

茶の本、最後に向けてフェーダーを上げきってフェーダーとれちゃったみたいな感覚で、読み終えてしまってすごく寂しいという感じがある。もう一度読み、「日本の目覚め」なども読んでいきたい。

おまけ:岡倉天心 物ニ観ズレバ竟ニ吾無シ

天心という名が、最初は落款代わりに使われ、書簡でも公的文書でも使われなかったというのは驚いた。再興日本美術院の人たちによって、岡倉先生を天心と呼ぶようになったようだ(p.6 参照)

削ぎ落とさないほうが、シンプルな態度が見えてくるということ|田中功起個展 共にいることの可能性、その試み

水戸芸術館は少し遠い、その遠さと共同作業を考えることの距離

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「共同作業」についての試みを他方向から見せる演出。

6日間の宿泊に参加した参加者と、アーティストと、アーティストの呼んだファシリテーターや映像作家のコラボレーションをもとに、アーティストの過去作品を挟みつつ鑑賞することができる、ビデオ・インスタレーション。

例えばみんなで料理を作ったり、例えば働き方について語り合ったり。

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外界と切り離されて集合した共同体と、水戸へと長い時間をかけて見に来た鑑賞者の感覚が、わずかにリンクする。私は友人のアーティストとともに宇都宮から車できた。「高校生ウィーク」というイベントで無料のカフェがあって、展示を半分見てからカフェで話し、また全部をまわってからまたカフェで討論することができて、充実した時間だった。

大きな会場内に、「アーティスト・ノート」「キュレーター・ノート」(大きな本のページのようにも見える)がガイドの様に張り出され、行われた実験の内容や状況、感想などがぽつぽつと綴られる。

空間デザインのセンスと説得力

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蛍光灯の光が空間を大きくしている。

大きな写真とそこにある現実の椅子の線が、様々な人がダイナミックに動く導線を作っている。疾走感、とどまって大きくなる線、線。観客は大きな紙(アーティストノート、キュレーターノート)と、話しながらも編集されているかたちを楽しんでいる

(平塚らいてふの本を持たせて、監視員を参加させ、鑑賞者のアクションに自由度を持たせるオノヨーコをもう少し民主主義に則ってていねいにやっている感じがする。)

「皆で作る事」と「失敗」という共感

切り取った時に「絵になる」という説得力をもたせてはいるが、あくまで「共同作業」を行う時のモヤモヤを扱っているという主題の見せ方がキャッチー。あまりに美しいので、美大生の中で流行ってしまいそう。けど、この見せ方はとても難しい。ちょっと特殊なことをやっているし、微妙な、奇妙なバランスで成り立っていることのように見える。

例えば、話し合いについて、「アーティストとしての自分の至らなさで、最後まで話し合うことができなかった」ということを綴る。また、残業によってキュレーターの育児に支障がでることを気にしたというような、「作品に関わる人々の生活」にまでも、目を向けているが、そのことでとっちらかったりしない、自由だが制御されている空間がある。

日本には共同作業が苦手な人が多いのではないか

私は、ピンとこないことを言っている人の話はほとんど聞かないし、好きな人のそばにいるように心がけている。そして、共同作業が苦手である。しかしそれは日本では一般的な意見なのではないだろうか。日本人は支え合い共同作業をするのが得意なイメージを何かしらから与えられているが、この展示を見て、モヤモヤとしている一人一人の主張に深く納得できるのは、 共同作業が必ずしも平等であるわけではなく、多くの否定をはらみ、心底疲れる仕事であるからに他ならない。しかし、私たちは民主主義の世界にいきている。

削ぎ落とさないほうが、シンプルな態度が見えてくるということ

一つの主題について言おうとして、その周辺にあるものについては大体そぎ落とした方が美しい。

しかし、この展示の場合は周辺にある瑣末で繊細な事象をきちんと入れ込んだほうが(つまり共同作業をしている様々な人々のあらゆる意見を入れ込んでいるほうが)、シンプルに問題を考えられるように作られている。これは本当にすごい発見であり、シンプルにしたほうがシンプルになるのではなく、まとめて話し合おう、しかも話し合うことで見逃すこともあるだろうというような、全く矛盾する試みを全部とにかく出し続けることで、民主主義やっている人々のありかたをトータルで問うような、シンプルな態度に見えてくる。何かを選びとったり、排除していかなければ停滞するという現実を見つめながらも、展示全体としては、左から入場すれば田中氏の全仕事についてを知りつつも今回の6日間の宿泊についてはバラバラに明かされていき、右から入場すれば6日間についてはきちんと語られてから見ていきつつ、だんだんと田中氏の代表作へと収束していく。全てが必然であるように見えてくる。しかしまた、その全てがバラバラに見えてくる。

水戸芸術館|美術|田中功起 共にいることの可能性、その試み

2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

ちなみに、土屋紳一作品について。

カセットテープの中身についてここまで仔細に書いておいて、中身を聞かせない、強い。

【映画 Banksy does NY】私たちは出来すぎた「偶然の街」で踊る!

www.youtube.com

覆面画家Banksy

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Banksy を知っているだろうか。

Londonを中心に活躍する覆面画家で、1人ともチームともいわれている。

その活動は壁へのグラフィティだけにとどまらず、該当ディスプレイ、美術館の中に無許可で展示するなど社会風刺的・芸術テロリズムともとれる作品が多い。この映画は、そんなバンク氏―のNYでの一か月にわたるstreet actionと、それらを取り巻くファン・住民・一攫千金を狙う泥棒・警察・メディアを大いに巻き込んだスリリングなドキュメンタリー、という風にしているが、その実、「かっこよさ」によって大衆向けの広告となってしまっている。
ミュージカルのように彼らの行動に大義名分をつけてしまっている様子は、本当に彼らがやりたい自由さとは遠く離れているように見えた。

マンハッタンを駆け巡る思惑

公式ウェブサイトより

2013年10月1日、バンクシーがニューヨークで展示をスタートさせた。 告知もなく突然始まったその展示は、毎日1点ニューヨーク各地の路上に作品を残し、場所を明かさず公式サイトに投稿。人々はその作品を求めてニューヨーク中を駆け回るという、ストリートとインターネット上の両方で勃発した「宝探し競争」だった。

映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』公式サイト

マンハッタン独特の賑やかさ・商業主義・格差と性の匂いと、バンクシーの仕掛けた遊びの掛け合わせの面白さだけでなく、バーチャルな街の中に宝が毎日浮かび上がるのを見つけようと駆け巡る興奮を味わうことになるだろう。

以下ネタバレ

非常にアメリカンな作りで、ファンと批判者、ブローカーとディーラーと一攫千金を夢見る人々がうごめきながら作品の疾走感を形作っている。

ドイツなら扇動罪とかなんとか理由付けて捕まりそうだが、アメリカはあくまで現行犯逮捕(器物破損)にこだわるだろうから、警察に捕まってしまうのかそうでないのかという基準が明確で、見つかったらどうしようというスリルもある。

 

一攫千金をねらってゴミ山をスフィンクスを盗む自動車整備士たち

一番印象的だったのは、明らかにゴミの山にしか見えないスフィンクス。Banksyはフットワークの軽さや風刺の評価以上に、「Designとしてのかっこよさ」「ビジュアルの良さ」が、多くの人々を魅了している。しかし、スフィンクスははっきり言ってただ汚いコンクリートをかき集めただけにしか見えない。

しかし、ここマンハッタンの資本主義は、「自分にはクソ以下にしか見えないモノでも、オークションにかけて一攫千金をゲットできるなら、なんとかして手に入れたい!」と人に思わせる力がある。案の定、整備士たちは「自分には価値はわからないけど、身なりのいいやつらがやってきて写真を撮り始めたから、これは売れると思った!」という。彼らが商業施設建設の為に職をなくすというのも、この一攫千金ストーリーにお涙頂戴シーンを連想させる。しかし、そうはうまくいかない。

水はけが悪く、雨がふって何日も水たまりが渇かない中に汚く積まれたコンクリや石でできたスフィンクスをギャラリーと組んでアートフェアに出すものの、売れない。バンクシーを扱うギャラリーが、前のシーンで「ブローカーから入手している」「banksyの価値を上げているのは我々だ」「banksyは感謝しているだろう」と笑顔で語っているのもむなしい。このすべてが、広告につながっているということも。

 

露天販売 では60$、オークションなら25万$

面白かったアイディアのひとつに、人を雇って露天販売で小さなキャンバスにbanksyが描いたものを売った時。ぱっと見には、贋作を格安で売っているようにしか見えないわけだ。

買ったのは、半額に値切ったおばさんとおばあさんと、新築に飾る作品がほしいと思ってと言っていたお兄さんだけ。他は見向きもしない。このお兄さん、4枚も買っていた。推定100万$ゲットである。是非これからも自分の目を信じていきていってほしい。ちなみに、顔出ししてしまっていたので、おうちを泥棒に襲撃されないように、セキュリティには気を付けてほしい。

露天を店じまいしてからbanksyはこの情報をインターネットにアップした。多くの美術関係者が悔しがったという。

この場所は誰のもの

そして、貧困街にbanksyが描いたグラフィティを見に来た美術関係者から5$ずつとろうとする住民も面白かった。しかも払うひといるし。住民曰く、「おまえらはここにこの絵が無かったら来なかっただろう。」という。確かに、美術関係者はここに来ることはなかっただろう。貧困格差についても考えさせられるのである。

あ、あとArt オブザーバーがbanksy批判してたのも面白かったな。毎日現代美術批評のせてるのに。

本当の自由と踊り

このように、人々が毎日町中banksyの作品を探し回っている様子は演劇的だし、アーティストが持つ、ネガティブに見れば「banksyに踊らされている」し、ポジティブに見れば「アーティストの本質は人を熱中させて踊らせることだ」と思い起こさせてくれる。

日本でも、寺山修司が30時間市外劇「ノック」という劇を行ったことがある。

俳優が、劇を日常原則のなかに持ち込んでゆく「戸別訪問演劇」の形式、見知らぬ人から台詞が配達されて、そのト書き通りに行動してゆくと、いつのまにか新しい人間関係にまきこまれてしまう「書簡演劇」。ー「ノック」p82

寺山たちが一メートル四方一時間国家を作ったように、banksyは時間と場所を自由に練り上げ、我々を躍らせてくれたが、結局は大衆に巨大な広告を打って、彼ら自身の本当の自由・批評性をほったらかしにしているように見える。

彼らが、この映画とは遠く離れたところで、全く違った批評性をもったアクションを行うこと・我々が自由に気づき、踊り始めることが求められている。

The joy of living with one less thing

20160203160659[The joy of living with one less thing]
During the process of moving, I decided to try living without buying a refrigerator and really enjoyed “living with one less thing”.

Rather than living with an extremely small number of possessions, I felt joy in the fact that maybe I could make do with just one less thing.

There was a simple satisfaction in changing a little of my life at a time, as opposed to a large, sudden change.

It doesn’t have to be an item as big as a refrigerator. For example, you can start out with just one less towel.

In a week I don’t think there will be that big of an effect, but day by day, I feel this will gradually influence how you see the world.

【ひとつなくても生きていけることの喜び】
私は引越しの過程で、冷蔵庫を買わずに暮らすということをやってみて、
「無くても生きていける」ということが嬉しかった。

ものすごく少ない量で生きていることよりも、
「ひとつ」なくてもいいかもしれない、ということに気づく喜び。

 ガラリと変えることではないけど、「少し」変えることの地味な達成感。
 

冷蔵庫ほど大きいものじゃなくても、例えばタオルを一枚減らすとか。

一週間くらいではそんなに影響を与えないけど、日々、じわじわと自分の価値観に影響を与えていく感じがします。

2016, KINTO Minami

Have a log of my possessions

Through a living that I do not have, and a life log, I will find an ideology that supports a local living.

持たない暮らしとライフログを通じて
ローカルな暮らしを支える思想を見つけていきます。

2015, KINTO Minami

The Mask

The aesthetic sense of people is clearly changing.
In Japan, many people wear surgical masks to protect themselves from viruses that cause colds. Of particular interest is that in recent years surgical masks have been used as items of “selfie culture”. Through hiding, the mask has become a device to show off beauty.
I wonder how this movement appears to the rest of the world.
Now, I work on such a piece of art with global insight.

人々の美意識は明らかに変化しています。
日本では多くの人々が風邪のウイルスから身体を守るためにマスクをします。
注目すべきことに、近年ではSelfie Cultureのアイテムとしてマスクが使われています。マスクは隠すことによって、美を見せる装置なのです。
このムーブメントは世界からみたらどう映るのでしょうか。
グローバルな見識でこの作品に取り組んでいます。

2014, Minami KINTO

Role Exchange-Marina Abramovich

Role Exchange (1975) – Marina Abramovich

公式の訳じゃないのですがささっと訳してみたのでよかったらどうぞ。

役割を交換する。
ユーゴスラビアの”ボディアート”パフォーマンスアーティスト、マリーナ・アブラモビッチ(グランドマザーたちのパフォーマンスアートで知られている)は、アムステルダムのレッドライト地区で一晩、一人の売春婦と立場を交換してお互いの仕事をした。マリーナはその売春婦と友達になって仲良くなり、匿名のままという条件付きで芸術作品に参加することに合意した。マリーナが娼婦の窓空間に立っただけではなく、同時に娼婦が展覧会のオープニングに参加もして、二人の女性は両方ともお互いの役割を演じたのだった。

アンナ・ナバコフがWomans Art Journalに2003年に記事に書いた1975年のマリーナ・アブラモビッチのパフォーマンスに触れてみよう。

「アブラモヴィッチによると、役割交換は数百人の人々に送られた標準的なギャラリー招待状で宣伝されました。展覧会は多くの聴衆を惹き付け、ギャラリー内と売春宿の窓の外で撮影された白黒のスチール写真で記録が取られました。ギャラリーでは直接的に参加した聴衆はいませんでしたが、売春宿には通りからやってきた男性の訪問者が三人いました。一人は酔っぱらっていてすぐに立ち去り、一人は料金を払おうとせず、三人目はその窓で働いているいつもの娼婦じゃないと嫌だったということでした」(Eメール交換、2002年11月)。展示はメディアで広く取り上げられた。役割交換のドキュメンタリーと他の多くの初期パフォーマンス作品が、額に入った写真と文章の形で1990年半ばに展示された。役割交換の写真はウライ(売春宿の前で)とディアペル・ギャラリーのスタッフ(ギャラリーの前で)が撮影した。

「私はユーゴスラビアに住んでいて、ボディアートというプロジェクトのためのパフォーマンスを行って欲しいと招待されていました。アムステルダムに行ったのも、レッドライト地区を見たのもそれが初めてでした。とても驚きました。特に共産主義/社会主義の国から来て私のようなバックグラウンドがあればね。私の母は軍の少佐でした。父は私が17歳の時に去ってしまいました。母は子供たち(マリーナと弟)を完全に一人で育てなければなりませんでした。母はとても厳しくて、いつもモラルについて語っていました。何が正しくて何が間違ってるって」。

ひとつ、無くても暮らしていけることの喜び

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私はチーズなどの乳製品がわりと好きで、

冷蔵庫は必需品だったのですが。

 

でも、引越しの過程で、冷蔵庫を買わずに暮らすということをやってみて、

「無くてもいける」ということが嬉しかったんですね。

 

ものすごく少ない量で生きていることよりも、

「ひとつ」なくてもいいかもしれない、ということに

気づく喜び。

 

ガラリと変えることではないけど、すこし、

「ひとつ」変えることの地味な達成感。

 

冷蔵庫ほど大きいものじゃなくても、例えば

タオルを一枚減らすとか。

 

一週間くらいではそんなに影響を与えないけど、

日々、じわじわと自分の価値観に影響を与えていく感じがします。

 

むしろ、見た目はそんなに変わらないものでも。

 

精神的にも、コツコツと成長していくものに目を向けるヒントになります。

南嶌宏先生のこと

現在展示させていただいているギャラリーニケの館長である南嶌先生が亡くなられました。

 

学生時代、南嶌先生の授業で紹介される展示はいつも刺激的でシビアでした。でも愛や祭、人間の尊厳に回収されてしまうオチに納得がいかなくて、いつも反論しに行っていました。今回の展示のために来校したとき、たまたま先生がいらっしゃってちょこっとだけ立ち話をしましたが、「こうやって続けているなら君はもう大丈夫、しがみついてもがいて発表し続けてるとこからしかスタートしない」とおっしゃっていました。私は、「続けていれば大丈夫」なんて思いません。というか、展示の図面に南嶌先生の直しが入ったり、私が完全暗転にしたかったけれどぎりぎりまで戦わせてもらったり、そしてできた図面なのに、結局展示のオープンを見ずに、というのはあんまりだと思います。反論したい人が去ってしまった。ニケはどうするんですか。というか、いろんな、様々な人はどうしたら。最後までアートを愛することと素直でい続けることを実践できるひとは、今後も現れますか。また、26日以降にちょっと落ち着いたら書きなおしたいと思います。

ご冥福をお祈りしています。

 

2016.1.18 金藤みなみ

カンファレンス3

バックナンバー

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カンファレンス進行内容についてです。
《導入》
共同体と「異」なるものとしてのアート
・異なる共同体とどのように制作や発表などの物事を進めていくか
・異なるものの人権を守り、新しい価値観を更新していくためには、どのような場が必要か

経歴

2017.March 3 更新

 

— 受賞歴 —

2016年 トーキョーワンダーシード2016 入選
2015年 シブカルスター誕生祭 カッパ師匠賞 受賞
2015年 第十八回岡本太郎現代芸術賞 入選
2012年 大舘/ゼロダテ ゼロ展 入選(中村政人 選)

 
— 個展 —
「金藤みなみ 展」(2011年8月22日-27日 銀座ギャラリー女子美[東京]
「黄金町車道ワーク」(2013年1月7日-20日 mujikobo[神奈川]
「THE DOUBLE KISS すみだがわ キスする ふたつ」(2013年9月21日-11月10日 あをば荘[東京]

 

— パフォーマンス —

「みなみと遊女の本当の浄土 新宿聖地巡礼ツアー」(2017年3月3日-5日 東京)

 

— スクリーニング —

金藤みなみ映像作品上映会「あ・る・く」( 2015年4月4日 (土) – 4月5日 (日)  TAV GALLERY [東京])

 

— 主なグループ展・プロジェクトなど —

滞在制作プロジェクト「Zerodate Art Project」(201381-1030日 ゼロダテ[秋田]

ワークショッププロジェクト「古本再生ワークショップ」(2013年10月27日 あをば荘[東京])ゲスト:辻本直樹(小道具家)

反戦  来るべき戦争に抗うために」展(2014年9月25日-29日 SNOW Contemporary[東京])

「第十八回岡本太郎現代芸術賞」展(2015年2月3日-4月12日 川崎市岡本太郎美術館

[神奈川])

「女子美術大学ガレリアニケ学芸員セレクション」(2016年1月15日-2月3日 女子美ガレリアニケ[東京])
「トーキョーワンダーシード」(2016年2月12日-3月31日 トーキョーワンダーサイト渋谷[東京])
「現在戦争画展」( 2016年8月5日 (金) – 8月28日 (日)  TAV GALLERY [東京])

「イスラエルから来たコロッケ」(2016年10月6日-10日 naonakamura,[東京])
「イスラエルから来たコロッケ」他スクリーニング等 Trance Arts Tokyo (2016年10月15日-30日,司 3331[東京])

岸井戯曲を上演する#4「六本木ヒルズを守る一族」(2016年12月17日-18日 blanClass[神奈川])

ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 上級コース 成果展『まつりのあとに』連動企画「反魂香」(2017年2月23日-27日, 西方寺[東京])

 

— 学歴 —
2007年 女子美術大学 芸術学部絵画学科(洋画) 入学
2011年 女子美術大学 芸術学部絵画学科(洋画) 卒業
2012年 多摩美術大学 大学院 美術研究科博士課程前期過程 入学
2013年 弘益美術大学校 芸術学部絵画学科交換留学プログラム(韓国)(多摩美術大学在籍中)
2013年 多摩美術大学 大学院 美術研究科博士課程前期過程 修了
2017年 ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 上級コース 入校
2017年 ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 上級コース 修了

 

— 掲載・インタビュー —

— 主催・参加した主なアートイベント —

・「道場Night -ジャンルはどこにあるの?- 」(2011年5月29日 日本空手道無門会道場[神奈川])

・グループ展「アート&デザイン批評 Co-Core ショー」(2012年12月12日~14日 Sanoma house Mediatori[ヘルシンキ〔フィンランド〕])

・「黄金町シャドウワークブック」(2013年1月7日~15日 mujikobo[神奈川]) 1月7日 ゲスト:大小島真木(画家)《本綴じの時 – アーティストとファイルの関係 – 》 1月10日 ゲスト:カゲヤマ気象台(演出家・脚本家)《本名の不在 – ペンネームを名乗るということ – 》 1月14日 ゲスト:辻本直樹(小道具家)・岡村結花(小道具家)《本当にやりたい分野 – 肩書きで語れないこと – 》 1月15日 ゲスト:荻原永璃(脚本家・演出家)《本物の恋 – 本物の役者との出会いと、その調理法 – 》

・グループ展「呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ」(2013年3月10日-17日 ターナーギャラリー[東京]) ・ 「呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ、トークセッション」(2013年3月16日 ターナーギャラリー[東京])出演者:多摩美術大学学生 ゲスト:松浦寿夫(批評家)、林道郎(批評家)

・グループ展「ギグメンタ2013」(2013年4月19日-29日 HIGURE 17-15 cas[東京])

・「ネット配信番組ほぼ週刊タガノス時間」(2013年9月8日 森吉四季美湖展望カフェ[秋田])

・「迂回路 ポートフォリオ・カフェ アート&カルチャーエクスチェンジ アジアオープンミーティング」(2013年9月18日 高架下スタジオsite-D集会場[神奈川])

・「鳳雛講座」(2013年10月18日 大館市立第一中学校[秋田])

・「クロージングのコンディション」(2013年11月9日 あをば荘[東京])ゲスト:岸井大輔(劇作家)

・「ディスカーシブプラットフォームって何?」(2013年12月22日 森美術館[東京])

・「としまアートステーション構想『としまのふるまい』カンパニーふるまい#2 《ファウンデーション」~日常をふるまいからひもとく発表会~》」(2014年2月11日 としまアートステーション「Z」[東京])

・「渋家アートカンファレンス vol.1 蔵屋美香と林道郎と金藤みなみ+増沢大輝が渋家を語る」(2014年3月1日 渋家[東京])

・「吉原芸術大サービス〜春一番〜」(2014年4月5日 吉原神社[東京])

・「3331 千代田芸術祭 アンデパンダン」 (2014年8月23日-9月7日 3331アーツ千代田[東京])

・「渋家アートカンファレンス vol.2 Mix well with art and power– 表現の自由と権力、その付き合い方 –」(2014年12月6日 渋家[東京])

・「第十八回岡本太郎現代芸術賞」展 ギャラリートーク(2015年2月16日 川崎市岡本太郎美術館[神奈川])

・「第12回グラフィック「1_WALL」展関連イベント ポートフォリオレビュー」(2015年3月25日 ガーディアンガーデン[東京])

・金藤みなみ映像作品上映会トーク「金藤みなみ × 会田誠 対談」( 2015年4月4日 (土)  TAV GALLERY [東京])

・金藤みなみ映像作品上映会トーク「金藤みなみ × Yotta ×久松知子 対談」( 2015年4月5日 (日)  TAV GALLERY [東京])

・アンデパンダン展示「マントル」(2015年5月16日-17日 トーキョー カルチャート by ビームス [東京] )

6回前橋映像祭 (2015年6月27(土)-28日(日)両日13:00 – 19:00  前橋弁天通り商店街  主催: 前橋映像祭実行委員会)

・オープンスタジオThe league Residency(2015年9月23日-25日 Residency at Vyt [ニューヨーク])

・「シブカルスター誕生祭」(2015年10月19日 ~女子が集えば世界が変わる!?~ | シブカル祭。2015

・「渋家アートカンファレンス vol.3 アートと移民とそのからだ」(2016年1月16日 女子美ガレリアニケ [東京])

・過去作上映会&舞踏家コラボレーション「あけらと歯イタ」(2016年1月30日 女子美ガレリアニケ [東京])

・「トーキョーワンダーシード」(2016年2月12日-3月31日 トーキョーワンダーサイト渋谷[東京])

— スカラシップ —

2015年 the Katzman scholarship to The league Residency at VYT

 

— その他 —

演劇スタッフ(衣装)「野良猫の首輪」(東京公演:2013年12月4日-12月7日 シアターグリーン Box in Box〔フェスティバル/トーキョー内〕/浜松公演:2013年12月15日 万年橋パークビル/大阪公演:2014年1月11日-13日 芸術創造館)

 

BiographyJP 金藤 みなみ/きんとう みなみ

1988 徳島県徳島市三好郡出身。横浜市育ち(※)。
2011 女子美術大学芸術学部絵画学科洋画卒業。
2013 多摩美術大学大学院美術研究科絵画研究領域修了。
2015 東京都在住

(short profile)アーティスト。1988年徳島生まれ横浜育ち。女子美術大学卒。多摩美術大学大学院修了。2013年より渋家でカンファレンスなどを担当。第十八回岡本太郎現代芸術賞入選 。「他者の痛みと同情(シンパシー)」を主題に、歴史的な重みのあるものを、キッチュ・エレガント・チャーミングなモノに変えるパフォーマンスや絵画、装身具などを制作。(160字)

(long profile)アーティスト。1988年徳島県生まれ横浜育ち。女子美術大学卒業後、多摩美術大学大学院美術研究科修了。交換留学で渡韓し弘益大学校(韓国)で現代美術を学ぶ。「他者の痛みと同情(シンパシー)」を主題に、歴史的な重みのあるものを、キッチュ・エレガント・チャーミングなモノに変えるパフォーマンスや絵画、装身具などを制作している。代表作は、歯痛の友人の話を聞いて友人の歯痛になり痛みを紛らわせようと笑わせる「歯イター他者の痛みにテレポートするための変身装置ー」や、他者に自分の顔の中で嫌いなところを聞き好きな素材で隠す「マスク」シリーズ、痛みを示す赤い△をかぶって本当の居場所を探して裸足で歩く「Achela」、嫌韓デモのあった場所をシャボン玉を吹きながら裸足で逆走する「SHIN-OKUBO-BOOMERANG」。2013年より渋家でカンファレンスなどを担当。2015年シブカル祭「シブカルスター誕生祭」カッパ師匠賞受賞、同年「第十八回岡本太郎現代芸術賞」入選。2013年個展「THE DOUBLE KISS すみだがわ キスする ふたつ」(あをば荘)、2015年映像作品上映会「あ・る・く」(TAV GALLERY)、2016年金藤みなみ+GiliLavy展覧会「イスラエルから来たコロッケ」(ナオ ナカムラ)。近年は新芸術校に通いリサーチプロジェクトも進めている。(579字)

 

ステイトメント

身体は血がめぐるのと同様に日々消失し生まれ変わります。身体のイメージもまた、マスクが医療品からファッショントレンドやSelfie Cultureのマストアイテムとして発達したように、あらゆる他者から衝撃的に影響を受け、消失し、変化を繰り返しています。

着ることによって、身体は私たちに私たちの抱える問題の重みを思い出させ、私たちの美意識がどのように生まれ、 どのように変化していくのかを確かめる装置なのです。

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修士論文:『パフォーマンスの未分類』

 

寄稿

女子美ガレリアニケ学芸員 西鍛治 麻岐

今回ご紹介した作家のひとり金藤みなみは本学の絵画学科洋画専攻を卒業し、第18回岡本太郎現代芸術賞に入選した気鋭の若手アーティストです。
金藤はこれまで一貫して社会や個人あるいは他者との関係性を意識した制作活動を続けてきました。その表現手法はパフォーマンス、映像、絵画制作など多彩ですが、作品の根底に流れる思想はパフォーマンスを通してより深く豊かに育まれているように感じます。
例えば本学卒業制作の≪歯イタ~他者の痛みにテレポートするための変身装置≫(2011年)では、歯が痛い友人に着想を得て歯の被り物を装着したパフォーマンスを発表しました。他者の身体的イメージを意図的になぞらえながら別のものに見立てることで、何かに置き換えることができるのだろうか、或いはできないのだろうか。という躊躇いをアートで試みた実験的な意欲作品となりました。パフォーマンスはその性質上、状況や鑑賞者との遭遇など偶然性が強く働く行為です。そのため常に他者と新たに関係を結んでいくことになります。したがって時代や社会、他者との間にある関係性と可能性を探ろうとする金藤にとって、外部と直接的に交感可能なパフォーマンスはテーマの深淵に迫るために不可欠な活動なのではないでしょうか。
本展覧会では女子美在学中より制作を続けている、モデルとの共同プロジェクト≪Mask≫(2009年~)の新作1点を含む3点を発表しています。
“マスク”は本来外部から身を守るための衛生ツールです。しかし近年は10代を中心として、ファッションアイテムのひとつとして定着する傾向にあります。また一部ではコンプレックスをカバーするための心理的なバリアーとして“伊達マスク症候群”といった社会現象としても語られています。
金藤はこれらマスクにまつわる現象に着目し、個人の変身表現のひとつとして捉えなおすことで、良い自画像イメージはどのように創られるのか、コンプレックスを糸口にして確かめようとしています。そして今回提示されたのはインタビュー映像やマスクを中心としたインスタレーション作品です。
本展覧会を開催するにあたり金藤に“Maskプロジェクト”を展示することに決めた理由を訊ねると次のように話してくれました。
「≪Mask≫は女性にとっての“見た目”に踏み込んだ切実なテーマの作品です。私は学生時代にこのテーマと出会いました。そしてこれまで作家を続けてこられたのもこの作品があったからです。せっかく母校で展示する機会を得ましたので、在学生に観て欲しいし伝えたいと考えました。」
≪Mask≫には金藤みなみから後輩へのささやかで力強いメッセージが隠されています。

 

金藤みなみのパフォーマンス                 菊地武彦

 金藤のパフォーマンスを初めて見たときは奇異であった。何回かこのパフォーマンスを体験したあとでも飽きないし馴れないそのたびごと不思議で奇妙な情動に駆られる。なぜ金藤のパフォーマンスはそのたびごとに奇妙な感覚を人に与えるのだろうか。そのヒントを金藤は多摩美の修士論文に書いている。「偶然出会う鑑賞者のまなざしや関係性は固定的なものでなく、山の景色のように日々動的に生まれるものだ」パフォーマンスはその性格上一期一会のものである。場所により、天候により、鑑賞者などによって常に変化し新たな関係を結んでいる。金藤のパフォーマンスが常に奇異であり続けるのは、他者とのフレキシブルな関係性を持っているからだ。
 そればかりではない。金藤と話していると独特の身体感覚のうえに様々なコンセプトやテーマが重層しているのがわかる。金藤はそれら様々なイメージの奔流をどれも打ち消すことなくぽんと投げ出してみせる。そうすることによって、ある人は政治的なメッセージを感じ取り、またある人はジェンダーの問題を読み取り、またある人はアニミズムを読み取ったりする。絵画の場合はじっくりと対峙してそれらを一つ一つ読み解いていくこともできるが、その場限りの出会いである金藤のパフォーマンスでは、すべての要素を同時に受け取ることになるので、受け取る側はなかなか深層までたどり着けない。しかし安易に自分のコンセプトに仕舞い込むのはよそう。れをそのまま不可思議なエモーションとして受け取るのが正しい賞法だと思う。
 では様々な意味を乗せる金藤の身体感覚とはどういったものだろうか。四国の山の中に育った金藤は、自分が「山に埋もれてしまう」「別の身体に入れ替わってしまう」感覚を持ったという。赤い円錐形をかぶることの意味は、山に埋もれない、自分の存在を確認することだという。緑の中の赤いかぶり物は、その場から乖離し存在を際立たせると同時に自身をもそのかぶり物によって変容させる。ウルや東京で行われた人混みでのパフォーマンスも意味は同じでろう。自然の中に埋もれるのを拒否するように、人混みの中に埋もれることも拒否しているのだ。ではかぶり物が赤い円錐形である理由はどこにあるのだろうか。円錐は木の形であり、山の形である。針葉樹の中に現れた紅葉した樹木だととれなくもない。完璧に自然から浮いた存在にしたいのならば、直方体や変なキャラクターなどのほうがいいかもしれない。金藤が円錐形を使うのは、自然や人混みに埋もれることに抗いながら、実は浮いた存在ではなくてそれらと有機的な関係を結ぶことを目指しているからではないだろうか。それゆえ円錐形の中から顔も出すし、手も出す。顔や手は他者との関係を結ぶ交感器官だからだ。
 こういった相矛盾した感情やコンセプトが金藤のパフォーマンスには満載されている。その内容はなかなか一言では語れないし、一方向からでは見られない。しかしそれが現代であろうし今を生きるリアルな感覚であろう。そしてその矛盾は自然とともに生きることを願いながらも文明を獲得してしまった人間の根源的な矛盾ともつながっているように思う
 多くの方が金藤のパフォーマンスを体験して、私とは違った感情を持ち、一期一会の個人的な関係を結んでもらいたい。

 

chapter.1

Sudden transformation into a monster
突然モンスターに変身する

DSC_5849_2Performance Still
Walking AchelaAchelaharajuku 
2012-now ongoing

chapter.2
transformation into other’s thought
他者の思想にトランスフォームする

mask014_IMG_0526_中

Performance Stills and Videos, series
2010-now ongoing, Mask

chapter.3
Sudden multiplication
突然増える

minami_kinto_file_20140222-04_bPerformance Still, Exhibition view
Things that happen in the past
2013.10/in 秋田 ゼロダテアートプロジェクト Zerodate art project, Akita

chapter.4
Walk back
後ろ向きに歩く

CIMG7932 のコピー ・2016, shinjuku double suiside

16.21.30Reverce2
2013.9-11/Sumida Awoba-so

いい子でいたい。というのは

 

2016-05-24 13.43.09

 

(ちなみに、この漫画がなんとなく思い起こされました。

わるい子|COMPLEX POOL  )

 

 

いい子、でいたい。友達がいてほしいから

 

小学校でなんとなく成績などがつき始めた頃に「褒められる」ことが気持ちわるい時がありました。

作文で褒められると、この人たちはいい物語を読んだことがないのか?と思い、

絵で褒められると、コンテキストわかってるのか?と思い、

まわりにいる人だいたいバカに見えました。

 

けれど、まわりがバカだと思って散々偉そうに威張り散らしてると、

今度は友達がいなくなってしまうので、いい子というか、

まわりのことを想いやりたいなと思ったんですね。

 

でも、最初は友達欲しくて持ち始めた「優しいふるまい」が、「褒められるのも悪くない」、という気持ちを帯び始め、最後には気持ちが逆転圧勝して、「褒められるためにやっている」、というふうになった時に、もう元に戻れない段階に来てたんですね。

 

いい子でいたい。他者に認められたいから

まじめなのは損だし、いい子なのは他人に媚を売るためなのかもしれないですけど、

結局は自分を自分として自分の納得がいく振る舞いがしたい、という欲望なんですね。

 

他者に認められ、居場所がほしいという気持ちと、他者に認められる自分を自分の手で作りたいという欲望。

自意識といいますけど、他者を過剰に意識しすぎている状態ですね。

これの何がまずいかって、他者はコントロールできないので、努力がのれんに腕押しなんです。

 

いい子でいたい。という欲望に気づく

他者はコントロールできないので、もう少し自分に引き寄せたほうがいいかなと思ったんですね。

駆け引きは人を魅力的にさせるかもしれないけど、駆け引きだけに依存してたら、

やっぱりぼーっとした顔になっちゃうと思うんです。

だから、「いい子でいたい。」という欲望に目を背けずに肯定していかないといけないな〜〜〜と思ったんです。

「自分なんかいい子でいたいだけのやつ」なんだけど、でも「本当の大人ってのを見せる」って態度なら、肩の力ぬいて頑張るかと思い直せたんですね。

 

 

いい子でいたい。というのは色気

「他者に認められるいい子でいたい、という汚い欲望を持っている自分」はイケてるじゃないですか。そういう、他者に媚をうる部分を認めれば、それは色気です。

 

欲望を認めてあげれば、無理にそこに向かって倒れ続けなくてもよくて、自分は自分で責任を持てるようになっていくのかな、と思います。

 

欲望むき出しのgood girlって、実は全然いい子じゃないけど、結構自由だと思うんですよね。

物々交換所の酒井くんのこととものづくりのゴミ問題

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物々交換所、という作品を作っているアーティストの酒井くんについて話したいと思います。

私も物々交換所の設置場所を提供したことがあるので、看板から文言を抜いてみます。

物々交換所は不用品のシェアスペースです。

ここに置いてある品物をもらうには以下のどちらかをお願いします。

1, 交換所を整理する。どうみても貰い手が付きそうにないものがあれば捨てる。

2, どんな物があるかツイッターでつぶやく。 #物々交換所 #(交換所の場所)

そして、会って聞いた話では、

・自分では使わないけど、綺麗で、誰かが欲しがるかもしれないもの

・等価交換じゃなくていい

・何も置いていかなくても、持っていっていい

という話なのです。

彼自身、会ってみると結構素朴で土着的です。よく展示で一緒になるので、自然と時々ショートメッセージを送ったりする仲になったのですが。彼の優しさのスケールが、「等価交換じゃなくても、持っていってもいい」と言うところにあります。物々交換所は酒井くんがはじめるものの、管理をするのは、善意のその場で暮らす人々。酒井くんの名前も顔も知らない人が、淡々と整理整頓をしてくれているのは、酒井くんの人柄がにじみ出た作品だからなんだろうなと思います。

美大のゴミ問題

「美術大学の卒業シーズン、大量の《新品同様の》ゴミが出る」

ということに、ショックを受ける人はまあまあ、います。

私も学年があがるごとに、筆やら絵の具やら捨てられている物を、有志の大掃除に参加することで学校経由で譲り受けましたし、それを「宝探し!」というように感じていました。

けれど、卒業シーズンには、大きい作品を、家には置けないということで、壊して、ゴミ置場に持っていくのです。そういう子もいるのです。私も、1年で作った大きな作品などは、捨てましたが、ゴミ置場に持っていっては、やはり考え直して戻し、またゴミ置場にもっていくという無駄足を何度もやっていました。

ものを作るとゴミが出る。

けれど、そのゴミもやり方ひとつで、誰かのためになるんじゃないかなと、ヒントになるような場所を作ってくれたのが、この物々交換所なのかな、と思います。

ワールドおさがりセンター

物物交換所は、だんだんと海外にも設置されるようになって、酒井くんが考えた訳語は「World OSAGARI Center」

もはや、物の等価交換ですらありません。

交換から、贈与へ。彼の物が溢れすぎた世の中への態度は、

より一層包括的で、国籍や肩書きを超えた、「人から人へのお下がり」にフォーカスされています。

今後も、美術界隈の人だけではなくて、より色んな人に、「物々交換所(ワールドおさがりセンター)」が知られるといいなと思います。

物々交換所ウェブサイト

bigakko.jp

twitter.com

【冷蔵庫なし】冬から始める冷蔵庫なし保存食づくりのすすめ

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冷蔵庫なし生活に興味がある方、冷蔵庫の音が気になる方、冷蔵庫が壊れてしまった方、こんにちは。

冷蔵庫なし生活2年目に突入します。

そんな私ですが、基本は自炊・お弁当ライフです。その中でもやりやすいレシピを紹介します。

 塩漬け

塩漬けは、「塩殺し」といって、古来から塩の水分をぬく作用によって食品の持ちをよくする方法です。

◎塩漬けのやり方

(1)野菜を煮る

(2)野菜の体積に対して5パーセントの塩を揉みこむ

(3)瓶にいれる

(4)使う時はそのまま瓶に水を入れて塩抜きします

《例》

・鶏肉(ムネ・モモ)塩漬け→ハム

(1)血やドリップを洗い流し、塩揉み。

(2)3日かけて塩もみし、ドリップが出ていたら捨てて保存

(3)使うときは水の入った鍋に入れて塩抜きします。

他に、野菜でも茹でて塩漬けにできます

・ブロッコリー

・ほうれん草

・スナップエンドウ

・トマト

・アスパラガス

根菜をフル活用

・人参

・ごぼう(きんぴらにしちゃいます)

(・玉ねぎ→好みの問題で自分はあまり買わないのですが、日持ちすると思います)

野菜は八百屋でどっと買って、塩漬けしたり茹でたり食べきってしまったり、いろいろです。

瓶をフル活用

・レンズ豆のピクルス

・ドライトマトと牛肉とナスの炊いたん

・林檎の赤ワインコンポート

・野菜のオイル漬け

・きのこのオイル漬け(アヒージョにしてもいいですね)

きのこのオイル付け(鷹の爪入り)の場合

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(1)フライパンにクッキングペーパーを敷き、きのこを炒める

(2)水気がなくなったら塩を小さじ2, ゆずやレモンなどをちょびちょびふりかける

(3)火を消して皿にうつし、2時間ほど冷ます

(4)オイル, 鷹の爪などとともにきのこを瓶に詰める

木の実類の活用

・デーツ

・アーモンド

・レーズン

ちなみに、冷蔵庫を持たないのは冷蔵庫がない暮らしがわりと好きだからです。

特に節約を考えているわけではありません。

瓶詰めレシピはまだまだやりがいがありそうだし、容器にも工夫ができそうです。

id:watasinokurasi 手放すの、結構難しいですよね。私はタイミングがあって、そもそも入手できない状況に追い込まれたので、いろいろとやり方を身につけた感じです。冷蔵庫に 入れていてもダメになってしまうものはあるので、最初はなるべく使わないものを入れないように工夫すると楽しいと思います!

id:horitsukiko みきさんも冷蔵庫なしの自炊取り入れてみてほしいです!検証お待ちしてます。

NYの滞在制作についてお知らせ

Today’s map I am going to go there and do artist in residence~~ If u visit NY,please come and see my works♡(but it is far from center of NY! sorry~~) Lets go to art book fair and Internet Yami- ichi! 9月からこちらにお世話になります。中心部から遠いので気軽には遊びに来れないとは思いますが、ブックフェアとかYami-ichiとか行けたらいいなあ。またお会いしましょう~~

手紙と差し入れのドキドキ

私が大事にしていて、たぶん今回の旅でも持っていくものの中に、「尊敬する人から頂いた手紙」があります。

男であれ、女であり、ちょっとした節目の時にきちっと書ける人は愛嬌があって惚れてしまいますよね。それこそ、ちょっぴり辛い時に頂いた励ましの言葉というのは嬉しいものです。住所録を作るのではなくて律儀に手紙の裏を見てお返事をおくりたいという心構えになってしまいます。

 

で、わたしもインディーズな作家さんで、直接お会いできるタイミングがあるときはたまに差し入れとお手紙を書いていきます。

 

その時、モノを渡すのは大丈夫なのか、手紙は迷惑にならないかなどとあれこれ思い悩むのですが、それは別にマイナスではなくて、好きだからこその悩みなので楽しんでいます。もちろん、出さなかった手紙もたくさんあります。(思いが走りすぎて日本語になっていない手紙をたくさん書いてしまいます…、青春かよ…。)

 

松浦弥太郎氏の手紙のまとめ方なのですが、年度ごとに紐などでくくってオブジェのようにするそうです。わたしも手紙は捨てません(大量生産の年賀状は捨ててしまいました、ごめんね)。私も今度紐でくくってみよう。

 

好きな人について机にかじりついて考えて言葉にしている時って、かけがえのない時間ですよね。

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↑この「どうしよう…//」が楽しい。恋かよ。

 

 

差し入れ

長時間のイベントの時に重要なのは、「溶けないこと」。

あとは、渡したい人について調べて嫌いなものをなるべく入れないこと。最後に、自分の好きなものを入れること。そして、相手は他人からモノがほしいわけでものづくりをしているわけではないということをきちんと知っておくこと。

個人的には、やはり音楽家や美術家のかたは、感想が一番嬉しいのではないでしょうか。

 

先日も、ある方にお手紙を頂いたのですが、本当に嬉しく、自分はひとりではないと強く思うことができました。大切にしたいと思います。

 

id:hayakita たとえば憧れの人のために書き損じをしながら手紙を書くと、自分が言葉にできなかった想いがふと出てきて、発見がありますよ!結局、自分はまだあこがれの人に郵送する心持ちじゃないなって思い直すこともありますし。

 

id:samueside そのわかりやすい祭典がバレンタインですが、個人的には年中そういうドキドキに包まれていたくて、いざ2月になるとやりたくなくなります・・・ふふふ

根拠がないと走れない友人について

2013-06-27 19.05.06

私はわりと直感や直観を信じて駆け上がれるタイプなので、理由とかを見つけなくても大丈夫なのですが、それとは逆に理由や根拠がないと迷い続けてしまうタイプの人がいます。

 

そういう人は大抵理系で、行動には結果と責任がついてくるということがわかっているので(私はたぶんまだ結果が直結しているように体感できてない)、迷いに迷って動けないんですよね。

 

 

 

彼らは、「理由とか御託なんか並べるなよ!」みたいな熱血が意外と苦手で、理由が必要な人には理由が必要なんだと思います。

 

そもそも、日本でいるとわりと理由がないと動けない人って多くて、A型的乙女座的というか、几帳面で臆病で、それが臆病さだけならいいんだけどひねてしまって狡猾だったり卑怯だったりという性格に定着しちゃう人っていると思うんです。

 

凡庸さと生真面目さが、そのまま結果を出せない自分をうまく信じられなくなって飛び抜けて目立つことがない自分をさらに責め立ててしまうタイプ。人口的には日本とかフィンランドに多い、理由さえきちんとついて理屈で証明できれば、一番「働く」やつら。

 

それって有能なんですよね。有能で臆病。

 

で、どうするか。

 

こういう時、やはり他者からの目線が重要で、コーチングによって変わる人もいます。

結果をきちんと想像できるというか、じつは理系で数字に明るく、結果のための計算ができてしまうから、リソースが足りないとできないことがすぐに分かってしまって、自分の実力が伴わないと自分のことが一番信じられない。

 

 

最初から才能に溢れていて結果出せるタイプの人がこういう正確だと、結果が伴ってるから冷静でいられるんだけど、大抵はそうじゃない。結果が出ないから、自分を信じられなくて、何を目標にしたらいいかわからなくなる堂々巡り。

 

これを、他人軸で考えているからだ!って頭ごなしに怒って、自分軸もてとか言うひといるんですが、個人的にはそういうの几帳面な人にはあわないよな、と思います。私から見れば他人軸って才能です。他人に自分がどう思われてるかに怯えるの、いいじゃないですか。自分が他人と一緒に社会に生きていると知っているということです。私は徹底的に他人軸に依存したほうがいいと思います。ただ、その他人軸は明確な方がいいです。できれば最初は一つだけ。憧れのひととか、自分にちょっと似てるけどすこし努力のしかたが上手い人とか、ちょこちょこ結果出してるひと。

 

たとえば今ダイエットとかしてなくても、毎日自分の体重を意識してるひとってかっこいいですよね。コントロールしようとしてる気がします。筋トレとかでもいいんですが、アスリートで、たんたんと自分のやるべきことをやっている人とか、結構ブログをやっている人も多いので、定期的に見てもいいのかなと思います。自分の「今」のリソースを信じられないっていうのは才能です。もっと欲しいという渇望、欲望にすなおだといいなと思います。自己顕示欲とかね。

 

苦労人で不器用で、でも、憧れ見つけてちょこっと真似するとハマるととことんっていうのは、一つのやり方だと思います。そうやって走ってる友人が、急に自分の夢を見つけてしまって、より一層加速していくのを何度も見たことがあります。

 

自分の夢って、探しているとみつからないのに、全速力で脇目も降らずに恐ろしい勢いで走っているとサッと手に掴めている時があります。あ、これだ…と。

 

 

みんな、減点方式なんですよね。

だから潔癖だし、友人の夢を助けてる自分にすら、ちょっとつらくなる。

この辛くなってしまってる時の切り替え方なんですが、ちゃんと辛くなることだけが、唯一救ってくれるかなと思います。私はまだ掴めていない、それが辛い、という。つらいって思ったことがない人が、自分の夢を手に入れても、わりと簡単に捨てちゃう気がします。

 

でも、そうやってギアをトップに入れてるとき、視界はひろくて、自分の夢も見つけやすいのかも知れないです。彼らの長所は自分のことでいっぱいにならないこと。けれどその分、「自分軸を持て」とかいう言葉の上澄みに困っていたのです。

困りながらも、友人は、自分で相対的な他人軸を細かく作って、自分というものを何とか眺める方法を手にしました。コツコツと一言日記などをつけて、自分がどんなときに落ち込んだり楽しかったりと心が動いたのかをメモして、自分を統計的に捉えて、その中で最適な答えを日々出していくような日々。体温を測ったり体重を記録したり。本当に丁寧に、環境と自分のすり合わせをやっていました。当たり前に夢なんて見つからないです。でも、そうやってコツコツやっていたら、やりたいことって、急に見つかります。そのチャンスが来た時に、サッとのるしかないです。

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