childbirth

先日出産した体験をメモしていたので公開します。これまでフィクションと日記を混ぜるようなテキストが多かったが、今回はどちらかというと激しい体験を受けながら記録していったメモをそのまま公開するスタイルです。とても長いです。陣痛レポとしてお楽しみください。

人生1日目のひととの生活

10/23 (土)
昼は散歩してトッポギとかマフィンとか食べて多摩川を見に行ってのどかだった。

21:00 とぽとぽっと水がこぼれる感覚。バスタオルが必要なほどではない。生理用品も普通の日に使うくらいのものでいいかな、というくらい。→電話、病院で診察受けることに
ペットボトルに水1/3, お湯2/3を入れて股に挟んで行く。会陰をあたためるとよい、という、助産院ばぶばぶのHISAKOさんの言葉が頭の片隅にあった。

~車で病院へ~
入院のための紙を書く→右手人差し指の爪が割れる(痛い)という唐突なアクシデント→紙に記入するのが痛い。パートナーに「じゃあ後で帰ってくるかもね~」と言ってのんきに診察室へ。まさかここから7日間会えなくなるとは露知らず。

~診察へ。~
陽性だった!→陣痛室へ。→救急ロビーで待っているであろう入院連絡をパートナーにLINEメッセージでする。促進剤の同意書などの必要書類(来週入院で、破水では促進剤いらないと思ってたのでおいてきていた)を持ってきてもらえるよう、もちろん通話ではなくメッセージで連絡。陣痛室はすでに寝てる人もいる時間なのでこそこそなのだ。

~促進剤をのむ~
22:45にくすりを飲んだ
8時間後にものむことを忘れないようにメモする。

採血、うまくいかず4回刺される。痛い!これが印象に残っている。
(今までの検診でそんなことはなかった。総合病院の採血室の人たちがうまかったのか、検診は昼だから血がとりやすかったのか。くっそーとなる。そういえば、そもそもは私は血管が細いからこの病院に来るまでは健康診断でも採決は立ちくらみを起こしがちでうまい看護師さんに変わってもらったりしていたな)

モニター(30分くらいかけて心音とかお腹のはりを記録する)をつける。
つけながら、歯ブラシとか忘れたなーと思ってパートナーに連絡する

◇10/24

10/24 1:22 陣痛室。同室は2人。そういえば、夜やってきてこっそりカバンの中身を整理してベット脇を自分の好みに作り替える感じって、ユースホステルのドミトリーを思い出す。

1:32 心音計測 元気で生きてる。私は爪の先が割れて痛いけどそれ以外元気で寝れそう。

1:48 今までとは違う痛み、生理痛の延長の痛さビッグウェーブがくる。50秒続く×3、そのあいだにトイレ。けっこうずっとトイレにいたい感じ。痛みは手の指をわかめのようにフラフラ動かすとごまかせる。このあたりでは、デカイ松明の周りを踊る村人というイメージ持って振り付けのように手の指を動かしていた。ちなみに2時くらいまではこのノリでいけるが、3時からは声を出した方が上手にリラックスできると感じる。「あぁあぁあーー!」って言うことで体は弛緩できる。痛くて叫ぶんじゃなくて、声を出すことで痛みから逃れてリラックスするための行為なんだなと発見がある。

2:06 ベッドに帰宅。トイレ目の前なので助かると思ってる。陣痛の波の後に絶対にトイレに行きたくなるし、行ってるし、陣痛に耐えてる間はこれが終わったらトイレに座れると思って、トイレにいくことがご褒美みたいになっている。トイレが一種のアミューズメントで癒される。

2:21 胎動あり

2:31 心音チェック 陣痛5分以内 手はワカメで乗り切れる、
腰を自分でぐりぐりさする。気づくと割れた爪の絆創膏が剥がれそうになっている。
温かいタオル持ってきてもらう。薄いタオルでさらにつつまれているが、そのテープを剥がして絆創膏をぐるぐるまく。依頼すればやってくれるだろうけど、依頼する余裕なんかない。

2:33 胎動あり。ぐにぐにしてる。

2:46 胎動あり、陣痛が5分感覚。だが、いきみというより、お腹が勝手に動いて破水するという感じ。陣痛は20秒~39秒がマジで痛くて、計測しながら「40秒からいたくないはずだから!!」と自分の励みになっていた。
陣痛の波の度に学びがあり、足を動かした方が痛くないかもと思って動かして激痛を体験した波の後は深く反省して次は絶対に足を動かさなかった。そうやって波が乗りこなせるようになっていく。本当に計測のおかげで振り返りと改善につながったし、「かならずこの波は終わる」という規則性にずいぶん助けられた。

(計測は「陣痛きたかも」というアプリで行った。ストーリーで以前見たアプリ。こういうものがあるんだと思って本当に助かった。)

3~6時で、陣痛後に絶対トイレにいきたくなり、行っていた。トイレにいたい気持ち。トイレにいってるときも陣痛があり、体起こしてるほうがいいのかと思ってベッドに座って陣痛計測しながらのりきる。座ってから、声もでるようになったけど、うんちのいきみではなくおしっこのいきみというかんじ。

~「痛い」って言う?~
「痛い痛い~」って振り返ってみれば言わなかった。これはソフロロジーで産みたい人はそうするらしいけど、自分の場合はソフロロジーは意識していなかったけど、陣痛といきみは「痛い」と言うよりも、その痛みとともにリラックスできる体になるための「手をワカメにする」「口をあける(歯を食い縛らない)」「目は上を向く(みけんにシワを寄せない)」を実行するのに必死だったのだ。

陣痛と分娩は「あぁあああああ」「おおおおぉぉぉ」「いけるいける」「がんばってるねーー!」「偉い偉いー!」って感じの声が多かった。(逆に、爪の痛みや縫ったあとの痛みは「痛ててて…」という感じ。)

そういえば、「がんばってるねぇ、すごいねぇ、今日も偉い偉い」というのはパートナーの口癖だったな。そもそもは私がパートナーにいつも言っているのでそれがうつったんだけど、「偉い偉いね、がんばってるがんばってる」という、いきみのときに出てる声は、パートナーが言ってるようでとても良かった。

がっつり内診のようにしてもらえると、いきみが止められる。いきみは逃すときと出産するときで合計10~20回くらいしかしてないのでまじでスピード出産だったと思う。おしっこ的いきみ(破水)は4時頃からあったが。

~対面~
お腹のなかにいるときは、羊水にお魚飼ってるみたいな気分だったけど、実際出てくると「リアル!」て思った。
鶴瓶さんか土偶かガッツさんか宇宙人かと思ってたけど、初見はどれにも似てなくてシンプルに可愛い~~リアル~~って感じだった。
ペットボトルは入院前に買うでしょと思ってたけど買うのを忘れてた。湯タンポがわりのペットボトルもストローが合わない。
のどがカラカラ…。

~縫合~
出来れば会陰切りたくなかったけど、全開から出産まで20分ほどもないスピード出産だったため、切った。縫合は、「肉を縫うような表現をしているアーティストの表現への理解に一歩近づいた!」っていう感想を持った。
麻酔できないところはリアル~~に釣糸っぽい弾力のある糸が肉をスルスル通っていくのを感じるしね。出血けっこうあって大変だったみたい。Zで縫っても出血して~ときいて、「かがりぬいみたいなものかな?」と思っていた。

10代で描く「膣の縫合」は、社会が押し付ける倒錯的な処女性への執着や自傷による社会的役割の拒否のメタファーであることが多いように思う。けれど、実際の縫合は母体を裂傷から守る。なんだか目が開くような体験だった。

~カンガルーケア~
カンガルーケアで2時間くらいいっしょにいた。
そのときはおでこにしわがよってた。髪がウェーブなんだ~って思った。お腹のなかに入ってたときと同じで手を食べてたので、はやめに初乳にもトライ。あむあむしたり、そのまま寝てしまったり。
私のお腹を冷やすために(出血止めるため)アイスノン置いてあるので、子の足に当たらないように足を上にあげてあげたり。すでに自分の手が子を守る行為をしていて、「へぇー!」という感じ。
ここから先も、我が子への愛とか母性とかは感じずに、体が母性を持っているのだなということを客観的に見ているという状態がある。しかし、悲壮感はない。面白くて興味深い。

11時に泊まる部屋に移動してぐっすり。12時にごはん食べる。

15時半頃に会いに行って抱っこ。あくびもくしゃみも上手で可愛かったのでした。

10/25
~授乳~
授乳スタート
9時の回診でOKもらってシャワー予約
9時半シャワー。ロクシタンの試供品のシャンプーで艶々

10時半から授乳指導、学生さんが見学。
お腹の中で手を食べていただけあってとても上手。
12時にパン屋さんでかぼちゃの菓子パンを買う。

17:45 産後って、「トイレにいく」が娯楽になるからすごい。(ただし座るときは円座じゃないとかなり痛いしトイレの後もはりついたようで痛い。これを痛みと言うと思う。)

18:30 お腹はぽっこりしているが、もう右脇腹にてを当てても赤ちゃんの足はないのだな。

人生が1日目のひとと生きる日は、少し冷静で、出産前と後で何かが変わったような気はそんなにしない。それは、助けてくれた多くのひとが私にそう思わせてくれただけのことなのだと思う。サポートしてくれる行政や民間の機関に繋がれることが出来たラッキーさだったり、助産師さんたちの連係プレーだったり。人生で一番痛いという体験を経れば何かが変わることを期待していたが、実際は鼻からスイカがでる痛みではないし、トラックに轢かれる痛みでもなかった。(たぶん人生一番の痛みはぎっくり腰)。今は抜糸が人生で一番怖い。

ただ。この痛みに、一緒に育てたりサポートしてくれる機関がないような不安や、障害支援や療育の情報につながれなかったり耐えられない事実をサポート体制がない社会に身を置くなどが重なってしまえば、いくらでも恐ろしい体験になってしまうようなイベントではあるだろう。そういう意味で、産むひとと人生0日目のひとが安心してもたれかかることができる機関は必要だし、そこに飛び込むハードルをぐっとさげていってほしい。

本当は出産してもしなくても、昨日と今日は劇的に違い、かつ、代わり映えがしない。私は子ども産んで育てる人生じゃなくても、とても良い人生だったと思う。育てること、サポートすること、里親になることももっとほんとは特別なことじゃなくて自然にあることであってほしい。その上で、もし出産というイベントにとびこむひとがいるなら、変に特別にしすぎずにいられる社会だったらいいなと思う。特別にしすぎない為には、必要なひとが必要な情報につながることへのハードルがさがる必要ある。そして、必要ない情報につながらない必要もある。

今回はそんな感じでした。

finger

つわりでつらかったのは、大きな絵や刺繍がかけなかったこと。

腰から入る作品やフットワーク軽く作るパフォーマンスなどが好きだったけど、

つわりのにおいのつらさや体のだるさでできなくなった。

そんなとき、指先で描けるドローイングや指先でめくることができる小説に救われた。

指先の力。体全体を動かす作品もいいけど、指先で広がる感性はやはり救いだ。

2021.10.11

「老い」と「ひきこもり」のサポートは誰がするか

100分で名著というテレビ番組で、シモーヌ・ド・ヴォーボワールの『老い』を紹介していましたね。

私はアーティストで、妊婦で今夫と住んでいるのですが、

義の弟も同居していて、同居するまで行政のサポートを受けていない状態が続いていました。

◇二ヶ月前にやったこと

健康センターの両親ケアで状況を話す。

私自身のカウンセリングの予約(産前鬱予防)

◇一ヶ月前やったこと

夫に不安を話す(将来自分たちが責任を持つのか、金銭不安)

助産師に相談

〜〜

この間に、義母が吐いて私が7119して義母が入院したり、義弟が発熱して7119したりしています。

◇一昨日やったこと

私自身が抱いている、精神不安・金銭不安・未来の責任不安を家族に話す。

症状や状況がわからず、弟が福祉と繋がっていないことによる不安。

◇今日やったこと

朝・・・自分の妊婦検診の前に時間があり、義母から弟の気持ちを聞いたということを聞く。

今までは全く意向を話してくれなかったが、「そういう支援があるなら話に行きたい、将来的に働きたい」ということが聞ける。

自分の母子の方のカウンセリングで今の状況を話す。その際、義弟や義母が使えそうな心の相談電話を教えてもらう(心がわからのケア)

市役所にパンフレットをもらいに行く。そのまま、今の状況を相談員さんに話す。(夫も)

ひとまず、本当に弟が行きたいなら、まず市役所に月一で行くことから始めようかと話がまとまる。(その後、違う施設の方が相性がよく、通う場所は変わるが)

◇今の感想

思ったよりも早く支援のところに行けたなあという感想です。

もちろん、明日弟は行きたくなくなるかもしれませんが。

相談員さん曰く、「10年ひきこもりであれば、働くまでまた10年かかる」とのこと。

ボーヴォワールの「老い」と合わせ、

思ってしまったのは、

「結局、社会がサポートすべき金銭支援・安心のための支援・生きるための支援は家族が担うことになるな」ということ。

それも、いつも嫁が担う(100分で名著で聞けば、「強制労働」。評価されず、対価なく、感謝されない労働)

これは社会の金銭サポートがかなり受けにくい状況で、

ずっとずっと、家族がお金を担っていくことになるんだな、と、ひとまずは正しく絶望できたのがよかったです。

とはいえ、どんな問題も同じですが、

あきらめても諦めても、諦めさせられても諦めさせられても、

理不尽で、嫌だ、だから社会に金銭サポートしてほしいということは

ずっとずっと言い続けようと思います。

老いもひきこもりも、サポートは金銭的にも

社会・福祉がすべきと思うのです。

そんな感じの日記でした。

giveupaseat

譲られなかったことよりも、譲られたことを覚えていたいな。

今日の譲られ。『シェイクスピアを楽しんだ女性たち』を読みながらたっていたら「気づかなくてごめんなさい」と50歳くらいの本を読んでいた人に席を譲られた。以前は留学生だったようにおもう。その人も本を読んでいた。その前は綺麗にまとまった茶色の髪の人だった。譲ってくれた人は揃って賢そうで前向きそうに見える。むくみが辛いのでずっと座るわけにもいかないのだけど貧血もあるので譲られて今のところ全部助かっている。片手にビニールで嘔吐の恐怖(嘔吐じたいもメチャイヤだが、嘔吐しちゃうんじゃないかという恐怖もある)があるので、座ってると袋を広げやすく助かる。

ドライでソリッド

これはドライな言い方かもしれないけど。

と付け足して、半年ほど組み上げに関わったチケットアプリのデザインメンバーから私を外すことにタクミはした。

「ドライ…」

タクミのいうドライさの手触りに違和感を覚えながら、話を聞いていた。

構成は良い。だけど、グラフィカルな部分で合わない。あいつならもっとうまくやれるし、指示したことがない。言葉で伝えないといけないなら、合わないということ。合わない人とバンドは組まない。

「私はバンドメンバーじゃないんだけどな」と内心は自由に思いながらも、それを発言することでいい方向は行かないだろうなと直感した。

タクミのいうドライさが、単純にステージを良いものにすることに繋がっているのか、または合わないやつを外していくということ自体がある種のいけにえのように何かを喜ばせているのかわからなかった。

バンドメンバーに合わないやつは必要ないという理論は、まるでバンドがバンドだけで成り立っているように私には聞こえて、バンドを舐めている発言にも聞こえた。やめていったサポートメンバーや合わなかった裏方がいたから彼が思う世界が実現しなかったと注釈したがっているようだ。自分に合うやつを残し、合わないやつとの会話をやめると、行き着く先は語彙不足だ。こういう理論を聞きに来たわけではなく具体的に進めていくやり方をしにスタジオに入った私はちょっと面食らっていた。音楽というのは文化で、言葉で伝えられるものではなく、今までも伝えたことはなく、言葉で進めていけないと。

彼が付け加えた言葉は、線引きかつあえて私のプライドのようなものを切り捨てることが全体のためになるというような自分を納得させるやり方のひとつ、癖のようなものなのかなと思った。

しかし、ある日、今までセンス一本でやって来たところに、言葉で組み上げていく経験を持たず、急に立ち行かなくなることもあるだろう。細かな粒度で会話を重ね、産み出していくものを経験していないとき、細い線に立っていた足元が既に線から遠く離れていることに気づくだろう。言葉というのは足だ。固い地面を作るのは、いつも伝わらないことを前提としながらも、言葉を重ねる力だ。

ドライさに言及させた彼の口びるから、少しずつずれていく未來と選別をすることによる痛みを必要な犠牲だとする酔いしれを感じ、あらゆる言葉の積み重ねがチームとステージを作り、些末なものとの結び付きが今を組み上げていることを間近でみているようだった。

何がかれの口びるをこんなにも渇かせ、固くさせたのだろう。その言葉はステージがバンドだけのものだというように、関わってきた人たちへの尊敬を捨て去る危うさがある。

それは信念と対立を起こしているように感じた。彼のほうが私の何百倍も音楽を愛しているだろうに。

では、グラフィカルな部分は外注しませんか、と聴いて話がまとまった。

渇いていると肌は傷つきやすい。湿度をあげるとイライラが鎮まる。

私を本当に外したいなら、私を目の前にして言葉で話せないと言うのではなく、アプリチームの人に予め私がいない場所で伝えるだろう。不器用さ、だな。ただ自分が違うジャンルの人間だということをあげつらわれるだけの会だったなとひとりごちた。

だけど、ソリッドな土はまず潤すところから。ソリッドには固いとかかっこいいとかいう以外にも「私は大丈夫」だという意味がある。

タクミは自称ドライかも知れないけど、私は自称「アイアムソリッド」だ。積み重ねにいつも絶望し、観察し、粘ることができる。

novelwritingtoday

分断され
隣人が完全に理解できない隠れ◯◯◯◯だとわかっても
それでも自分の意見とは違う理解できない49.5%の隣人と
明日も一緒に生きていかなきゃいけない

オバマからトランプを経験したインテリが隠れトランプを悪いからと排除していたら、それこそ『動物農場』だ。ブリグジットを背景にしたアリ・スミスの『秋』みたいな苛烈な小説がアメリカから出てくるだろうし、それを書くのは私かもしれないしあなたかもしれない。早めによみたい。私も書くのでみんなも書こう。

credit

手柄と溶けることについて考えている。

あるトラックメイカーが、昔インタビューで「渋谷の全部のクラブをひとりで回せるわけないんだから、それぞれがお互いを大事にするのはあたりまえ」みたいなこといっていたような感じがする。

ひとりで全部できないし、影響を与えあい、分担するのはあたりまえなんだと。

それ以降、ジャンルがちがっても敵対構造になりそうな相手でも、こいつが気持ちよく活躍できることは最後俺にまわってくるし、ひいては全世界のカルチャーの質がよくなることにつながる、つまり俺の手柄…みたいに、自己肯定感がめちゃ高まるようにしてきていた。

逆に、誰か足を引っ張るようにするひとは、その人がのちのち引っ張られてしまうし、全体的に溶け合った世界ではそいつの無礼なふるまいは私の責任というふうに思うようになった。

良い作品がこのよにうまれ、それはワシの手柄。

ワシが良い作品をつくれば、それは溶け合った世界の手柄。(2020.9.6の日記)

invisible-women

どうでも良い、知らん人の言葉に傷つくこともあるが、

私を芯から冷たくさせるのは

いつも 優しいともだちの

無邪気な無知

女性の友人が前に

「すごく良いコンセプトだね。彼氏が考えたの?」といったようなことを10年ほど前に言ったが

それを今も覚えている。

また、7年ほど前に

男性の展示の手伝いを付きっきりでした女性のことを思い出す。

女性が男性に冗談混じりに「わたしだって創作活動をしているのに」と言ったら

「協力」には名前残すから

と言って優しいと思ったが

彼の展示は彼女の手がかなり入り成立しているが

あくまでも個展

きっと「彼女が考えてくれたの?」と素朴に聞かれることはないだろう。

ケアをし、そっと名前が消されていくひとがいて、

誰かが手伝っているんでしょうと当たり前に言われるひとがいる。

私も多くのひとに関わられ、助かり、

しかしそれゆえに「支えられた」は失礼なのではと思い始めている。

一触即発のかかわり合いの方がまだ

正確にとらえられている

20200808

『房思琪(ファンスーチー)の初恋の楽園』を書いた林奕含が「文学に裏切られた」と言ったことは、私にとって忘れられない。

文学が裏切る、美術が裏切る、そういったことを頭ではわからないしそんな訳ないと言いたかったけど、肌でわかるときがある。こんなに愛した文学なのに裏切る。人に裏切られたのではなく、学びたくて学び続けたものが裏切る。

20200802

搬入を終えてみて、気づいたこと。

「ザ・マスクウーメン」の4のパートが「人と時代」なのだけど、2つとも誰かと作った作品だ。

ひとつはフリーランス編集長の西田篤史さんと。もうひとつは曽根安代さんと。後者は、「誰かと作った」という言い方は違うかもしれない。なぜなら、私が書いた小説を案として引用して描かれたまんがだからだ。(まんがの原案として描いたのではなく、インターネットで公開していたのを見つけてもらって描いてくださった)

今回は2のパートで様々な古典を引用しているが、4でついに私のほうが引用されることになっている。

今回は、3のパートのルネ・マグリットの世界大戦をオマージュした新作の発表だけでよかったかもしれないが、1から見ていくと本当に面白いと思うので、ぜひ見ていただけると嬉しい。

2020年8月10日まで。

サルビアホール公式ページはこちら

http://www.salvia-hall.jp/

The Mask Women

2020年8月3日~10日(会期中無休)の展覧会のお知らせ / 記録ページです。

Documents

Photo by Salvia Hall Gallery
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Photo by Salvia Hall Gallery
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The Mask Women video document

詳細

8月3日(月)~10日(月祝)【ヨコハマトリエンナーレ2020応援プログラム】 
サルビアホール現代美術展「ザ・マスクウーメン」金藤みなみ個展

日時 8月3日(月)~10日(月祝) 12:00-20:00(8,9,10日は10時から)

鶴見区民文化センター サルビアホール(〒230-0051 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央1-31-2 シークレイン内 3階)
JR京浜東北線・鶴見線「鶴見」駅 東口から徒歩2分
京急本線「京急鶴見」駅 西口から徒歩2分 アクセス詳細

ギャラリー入場料無料

公式ページ http://www.salvia-hall.jp/event/?id=1594198589-614004

主催 鶴見区民文化センター サルビアホール

Person In Charge N. Fukuda

「ヨコハマトリエンナーレ 2020 応援プログラム」の取り組みとは?

www.yokohamatriennale.jp

各種リンク・プレス

www.salvia-hall.jp

www.salvia-hall.jp

bijutsutecho.com

text

スチャラカな日々でも「私は何かを成し遂げなかった」と思う日は少ない。

私は毎日成し遂げている。twilogをたどると、2017年に私のタイムラインで悪夢を見ている人が多いと書かれていた。

そういうちょっとした生活を呟くのも良いが、初めて会った人がfacebookやTwitterのタイムラインを読むので作品のサムネイルをじゃんじゃん乗っける川のようになっていて、表層だけを名刺にしている。

何年か前の、別にだれもが喜ぶようなことを書けるわけじゃないが、スチャラカな呟きの方がよかったようなきもするが、とにかく初めて会った人が私の作品の表層を眺めるためのもてなしを今はやっている。

「『私が知る孤独』のための交換日記」

2020. ARR. 14 更新 交換日記 山羊座のパンのために Exchange diary for Pan, Capricornus
刺繍図案

孤独交換・貨幣交換はこちら

goldenmilk.theshop.jp

※画像刺繍はイメージです。

パフォーマンス「『私が知る孤独』のための交換日記」

こんにちは。アーティストの金藤みなみです。
パフォーマンスのお知らせです。
2343字の小説「私が知る孤独」(日本語)を1文字単位であなたの日記と交換し、送付します。

◆交換方法

1.貨幣交換
本ページ( https://goldenmilk.theshop.jp/items/27825547 )より500円の支払いにて全文字数をまとめて購入いただけます。貨幣交換の場合は全文字数の購入のみの対応となります。

◆「貨幣交換」販売開始時間
2020年5月1日 金曜日 午後1時(13時)から5月6日までを予定。また、予告なくクローズとなる可能性があります。

2. 孤独交換

お客様の日記1文字につき1文字交換いたします。

コンタクトフォーム( https://thebase.in/inquiry/goldenmilk-theshop-jp/ )

お名前、メールアドレス、電話番号(空欄では届かないので00000000000と記入ください)を記入いただき、
件名を「孤独交換」とし、お問い合わせ内容に交換希望の文字数分の日記を記入してください。お客様ご自身で日記をウェブ等で公開されてもかまいません。(日記のURLをご記入ください。)

※孤独交換はコンタクトフォームより日記をお送りください。
※孤独交換は4月から受付します。
※2020年5月6日クローズ予定です。
※437字以上~2343字以下とします。
※日記は、欲しい文字数分がコンタクトフォームの「お問い合わせ内容」に書かれていることが必要です。また、2343字を越えた場合でも、こちらからは2343字分(日記すべて)のみ送付することとします。
※交換された日記は展示等にて公開する可能性があります。

上記のいずれかにより交換していただけます。

◆受け取り方法

メール本文に記載し、返信いたします。

※We may do the performance in English, while this is in Japanese.

※手数料については、BASE公式ウェブサイトのFAQに一任しております。
◾️購入者側に手数料は発生しますか?
https://help.thebase.in/hc/ja/articles/206418841-%E8%B3%BC%E5%85%A5%E8%80%85%E5%81%B4%E3%81%AB%E6%89%8B%E6%95%B0%E6%96%99%E3%81%AF%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B-

※申し込み方法、期間などは予告なく変更する可能性があります。

※関連商品(アクセサリー、関連zine)は順次発売予定です。

孤独の交換ができます

from 2013 text

コンプレックス
A complex.

What is a complex? Why We feel border between ideal and reality? I’m just curious about what we really want to transform.

コンプレックスとは何ですか?なぜ私たちは理想と現実の間の境界を感じますか?私たちが本当に何に変身したいのかに興味があります。

2018

How to love the stranger in the ironical society.

The mask, the new sexism, the back to life perfume, the DMZ…, everything I will show you is how to love the stranger.
People are often afraid of strangers, they say “It is not one of us. ”, then accepting the stranger is hard, though all problem have to solve with other people. My answer is, to cry with them as the alien, as the tourist and as the friend. To treat those relationships as the same value at the same time is very important. First, I will know how to make the mask of the society which eliminate the minority, then I  will change my face, body, behavior as an alien, and also move it. I am in the alien side always. There is a touch of irony in mine. If you’re as terrified of an irony of fate as I am but also endlessly fascinated by it, then my art works is for you. I will show you how to love the town. I cry and walk on the lands, under heavens for them. This is my answer.

아이러니한 사회에서 “이방인” -The stranger- 을 사랑하는 방법.

 마스크, 새로운 성차별주의, 죽은 사람을 되살리는 향 냄새, 비무장지대(DMZ)… 제가 당신에게 제시하는 모든 것은,
이방인을 사랑하기 위한 방법입니다.

 사람들은 가끔 이방인을 두려워하고, “그들은 우리와 같은 사람이 아니야.” 라고 말합니다. 이방인을 받아들이는 것은
어렵지만, 모든 문제는 다른 사람들과 함께 해결해야만 합니다.

 저의 해답은, 외국인으로서, 여행자로서, 그리고 친구로서, 그들과 함께 외치는 것입니다. 동시에 이 모든 관계를, 같은
가치로써 동등하게 대하는 것은 매우 중요한 일입니다.

 먼저, 소수파를 배제하는 사회의 가면을 만드는 방법을 알고, 얼굴, 몸, 행동을 에일리언alien-외지인으로서 바꾸어
움직이게 합니다. 저는 언제나 에일리언alien -이질적인 사람의 편에 서 있습니다. 저의 표현에는 아이러니컬한 면이
있습니다.  저처럼 사회의 모순적인 부분을 미워하고 두려워하는 것뿐만이 아니라, 그 점에 끊임없이 매료되어 이끌린다면, 저의
예술작품은 당신을 위한 것입니다.

 전 거리를 사랑하는 방법을 당신에게 제시합니다. 전 외치며, 그들을 위해 하늘 아래 지면을 걸어갑니다.

 이것이 저의 해답입니다.

( 번역: 김지영 翻訳:金智暎 )   

皮肉な社会で見知らぬ人(異邦人, The stranger)を愛する方法。

マスク、新しいセクシズム、死者を蘇らせるお香、DMZ …、私があなたに示すすべては、見知らぬ人を愛する方法です。人々はしばしば見知らぬ人を恐れている、彼らは言う 「それは私たちの仲間ではない」。見知らぬ人を受け入れるのは難しいですが、すべての問題は他の人と一緒に解決しなければなりません。私の答えは、外国人として、旅行者として、そして友人として、彼らと一緒に叫ぶことです。同時に、これらの関係を同じ価値として扱うことは非常に重要です。まず、少数派を排除する社会の仮面を作る方法を知り、顔、体、行動をエイリアンとして変え、それを動かす。私は常にエイリアンの側にいる。私の表現には皮肉のように感じさせる面があります。私のように社会の皮肉を憎み恐れているだけでなく、それに絶え間なく魅了されているのなら、私の芸術作品はあなたのためのものです。
私は街を愛する方法をあなたに示します。私は叫び、彼らのために空の下の地面を歩いています。これが私の答えです。

2018.09.24

消費によって削られる装いを反映させたパフォーマンスを中心に、「同情とは何か」という問いとして作品制作を捉え、様々なアプローチをしてきた。身体は私たちに私たちの抱える問題の重みや質感を伝え、私たちの美意識がどのように生まれ、 どのように変化していくのかを確かめる装置だと仮定している。遠い他人の問題を共に考えることは、他人の仮面をよく知り、仮面を被り、クリーチャーのように自身を変化させる必要があった。他者の理解は問題解決に不可欠だが、よそ者を受け入れることは難しかった。よそ者であり、クリーチャーであり、旅行者であり、友愛のある隣人であることの可能性を模索している。

2017

2017.10.10

「同情とは何か」という問いとして作品制作を捉え、様々なアプローチをしている。

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきた。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、見ることと見られることが、いかに人間のイメージに影響を与えるかということです。ギミックによって、見ることの意味を逆転させることにも興味があります。

ギミックについて考えていたこと。

・入水自殺した遊女がモチーフ。川の流れに逆行する歩行パフォーマンス。記録映像を撮る。逆再生する。

・船上で殺された遊女高尾がモチーフ。反魂香を引用し、後ろ歩きのパフォーマンスを行う。ビデオに撮る。逆再生して見せる。歩いた参道を見せる。

・ナルキッソスが変身した「水仙」になる。変身の過程を化粧や着替えを含めて見せる。

2017.4.3

The abyss of performance

Performers are seen. Simultaneously participants are seen by the performer. At any time, the performance is established by being seen.
Turn things around and the performance is seeing participants and a performer.
 
The act of “seeing” cannot be separated from the thought of the brain.
“When I was a child, I memorized what I saw for the first time in my brain. For example I might say to myself “this is a  chair.” This kind of procedure helped me to identify objects I encountered in daily life.
To see is to understand. To see is to classify. It is as if we have a genre-classifying folder in the brain, but then suddenly when we come up against a work which we cannot classify, which we cannot divide into genres, it is useful to have an “unclassified” place to slot it. The area that our “unclassified “ category covers however, cannot be too vast, otherwise too much will be swallowed up in this nondescript place.
 
Concerning sympathy….we can construct “sympathy folders” which will contain our expressions of sympathy towards them.
 
I started acting and I have created performance and visual art. What I am always interested in is a contradiction that exists
within the concept of “seeing”. Performance is unclassified and yet we can not see without classification. We are being seen,always, by the gentle and dreadful abyss of performance.

 

「パフォーマンスという深淵」(Long)

パフォーマーは、見られている。同時に、観客もパフォーマーに見られている。いつでも、パフォーマンスは見られることで成立します。ひっくり返して言えば、パフォーマンスが、私たちパフォーマーと、観客を見ているのです。

“見る”行為は脳の思考と切り離せない。
子どもの頃、はいはいをして進む度に景色は変わって行った。目の前にあった大きな椅子の足が、すこし椅子から離れると小さく見えた。今では遠近法やパースなどを理解しているから、理屈はわかる。しかし、自身の位置によって目の前にある椅子すらも刻々と姿が変わる様に知覚する。すると、一つの椅子として認識出来ない。これでは日常生活を送る事ができない。困る。だから、“これは椅子だ”と括ることを覚える。一度飲み込めないものでもとりあえず“見た”ことにしておく。よって、見る事は分かることであり、分類である。
まるで脳の中にジャンル分けのフォルダーを持っているようだ。
脳の中でのフォルダー分けについてもう少し触れておく。さっきの椅子の例では「見ること」は思考が切り離せない、とした。では、「見た」ものの思考整理についてはどうだろうか。例えばブログを書く時。自身でフォルダ分けする人は多い。「花火の思い出」「友達の家で」などと振り分けて行っても、ふとジャンル分けしきれない記事にぶつかることがある。そのような時、「未分類」に振り分けておくと、後々テーマを決めることもできて便利ではないだろうか。私は映像記録をパソコンに保存する時、いつもシリーズによって分類する。「あれ、これはどのシリーズに入れようと思っていたかな?」と思い出せない時、賢いパーソナルコンピューターは、“「未分類」に振り分けますか?”と、私に問う。慌てた私は”はい”を選び、それを「未分類」と名付けてしまう。
これは「この作品は分類しきれない」と決断することと同じだ。他に分類したつもりの作品も、実は分類なんかしきれていないんじゃないか、という一抹の不安が頭をかすめる。未分類とは、分類しきれなかったものであり、実際「フォルダー分けせずにただ見る」ことを許すフォルダーだ。

同情心について。シンパシーであれば、他人のフォルダーを閲覧し、可哀そうだと思うだけで良いですが、エンパシーは、他人の痛みのフォルダーが、自分のフォルダーそのものになってしまいます。このように同化してしまう時、精神がどうにかならないように、私たちは冷静に、「見る」ことに立ち返らなければいけません。「見られ」ながら、「見る」こと。自らを自分としてまとまりもたせる“役”を用意する必要があります。
 

このように、未分類は分類しきれなかった“わけがわからないもの”だけがパフォーマンスである。しかし、見ることによってのみ、パフォーマンスは成立する。この矛盾を同時に成立させる現象が、「パフォーマンスに見られている」である。

 

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきました。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、“見る”事につきまとう矛盾です。パフォーマンスは、未分類だけれど、分類しなければ私たちは見ることができない。私たちは見られている、いつも、優しくて恐ろしい、パフォーマンスという深淵に。

修士論文:『パフォーマンスの未分類』

 

2017, The abyss called the Performance(short)

パフォーマーは、見られている。同時に、観客もパフォーマーに見られている。いつでも、パフォーマンスは見られることで成立します。ひっくり返して言えば、パフォーマンスが、私たちパフォーマーと、観客を見ているのです。

“見る”行為は脳の思考と切り離せません。
子どもの頃、日常生活を送る為に、初めて見たものを脳の中で“これは椅子だ”というように、括ることを覚えます。見る事は分かることであり、分類です。まるで脳の中にジャンル分けのフォルダーを持っているようです。ふと、ジャンル分けしきれない作品にぶつかった時、「未分類」に振り分けておくと、後々便利です。ただし、未分類が膨れ上がれば、私たちはそれを認識することはできません。未分類に飲み込まれてはいけないのです。けれど、同時に、未分類を作らなければ、私たちは活動を進めることができません。

同情心について。シンパシーであれば、他人のフォルダーを閲覧し、可哀そうだと思うだけで良いですが、エンパシーは、他人の痛みのフォルダーが、自分のフォルダーそのものになってしまいます。このように同化してしまう時、精神がどうにかならないように、私たちは冷静に、「見る」ことに立ち返らなければいけません。「見られ」ながら、「見る」こと。自らを自分としてまとまりもたせる“役”を用意する必要があります。

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきました。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、“見る”事につきまとう矛盾です。パフォーマンスは、未分類だけれど、分類しなければ私たちは見ることができない。私たちは見られている、いつも、優しくて恐ろしい、パフォーマンスという深淵に。
3.April.2017

2017, terrible love

酷い愛
他者の痛みに同情心を持つ自分自身に後ろめたさを感じる。
後ろめたさの中にしか美しさは無い、と仮定する。
人間にとっての隠す・すり替える・変化する行為を劇の暴力性をもってなぞり、酷い愛、を「芸術」として提出する。 2017.2.26

2016, Removing the junk

人間にまとわりつく『屑』を引き剥がす。
装身具(デコレーション)とパフォーマンスを用いて、「他者の痛みと同情(シンパシー)」を主題に、歴史的な重みのあるものをエレガントでチャーミングなモノに変える。
・突然モンスターに変身する
・他者の思想にトランスフォームする
・すべてが後ろ向きに帰っていく
“Removing the layers of 'junk' surrounding people.”
・Sudden transformation into a monster
・transformation into other’s thought
・Everything goes back home

2015, Exporting Complexes-Emphasizing, recording, and considering

As expressions of transformation are important to Japanese culture, the country's characters and cosplay have been in recent years increasingly exported abroad. Beasts and avatars with human minds are returning to fill the streets.
But are these things being exported accurately? Our bodies undergo a daily process of transformation and renewal through our personal circumstances and complexes, and when we face the pains of others or consider the human condition, we are in the middle of that constant process. In other words people enjoy cosplay while carrying the confusion and complexes, the negative emotions, of their original selves. Their initial goal is to hide these things.
Approaching the culture simply as an outside admirer, one can fail to examine these original selves and overlook the true purpose behind the whole culture. In reality, it is not mere imitation, but rather a way of creating a better version of oneself in DIY form while preserving one's own identity, a kind of makeup applied to their original selves or a "selfie." I will look into the actions that are taken to preserve this kind of complexly intertwined movement. Avoiding the surface of cultural exportation, I want to deal with the universal beauty to be found in the more fundamental desire for human self-expression.
Opening up new paths in the context of recent experiments at the MOMA and TATE in preserving their performance collection that have attracted notice, I want to transmit these things to people, primarily the artists and curators of Japan, connecting them to that lineage.
Also, regarding these expressions of transformation which form a representative part of both Japanese and American cultural expressions, I will add my investigations coming out of my exhibitions which have focused primarily on interviews, coverings, and the creation of masks.
In this way, by classifying and considering the movement, I can record the context for these expressions of transformation and help to preserve its important works. Also, as these expressions are something that comes from the individual, that person will create something that has their own personality, making more deeply original creations possible.
To this point, I have created many works on a foundation of dialogue and the formation of relationships. More importantly, I am proud to have created, in my collections and projects, something which forms a historically important monument and a bridge to these works, with conferences, consideration, and through experience coming from the actual creation of works, all in regards to the question of how to preserve a performance that would appear difficult to capture.
That is why, through my works, I want to help our two countries to consider those things which humans attempt to conceal or change.

コンプレックスを輸出する — 強調する、記録する、そして考える

 変身表現は日本文化にとって重要なもので、近年ではキャラクターやコスプレの海外輸出が盛んです。人間のような心をもった妖怪やアバターが 街には溢れ帰っています。
 しかし、それはきちんと輸出していることになるのでしょうか。私たちの身体は、個人の事情やコンプレックスにより、日々変身と改善を繰り返し、時には他者の苦痛へのまなざしや人間の条件を考え、絶えざる変化の中にいます。つまり、人は元の姿への戸惑いやコンプレックスといったマイナスの感情を持ってコスプレに興じることもあるのです。そもそも、隠すという行為が目的でもあるのです。
 憧れに近づくだけの文化として捉えると、元の姿を吟味する側面を見逃し、この文化の真意を見逃してしまいます。実際は、単なる模倣ではなく、自分の元の姿を基盤としたメイク方法や、『自撮り』のように自分自身であるというアイデンティティを保ちながらよりよい自分自身をDIY形式で創り出すような方法があります。このように複雑に絡み合ったムーブメントを保存するような動きを検討します。表面的な文化輸出を避け、より根源的な人間の表現欲求を見つめることで、普遍的な美に取り組みます。
 この事で、近年MOMAやTATEで注目されているパフォーマンスをコレクションとして保管するような試みの文脈に則った道筋を新たに創り出し、日本のアーティスト・キュレーターを中心とした人々に伝えることで、系譜をつなぎます。
 また、変身表現という日本及び米国の代表的な文化類型について、インタビュー及びかぶり物やマスクの制作を中心とした展示による検討を加えます。
 このように、ムーブメントを分類して考えることで、変身表現の文脈を記録し、重要な作品を保管することにつながります。また、そのような表現を実際に自身が行うことによって、当事者性を持った作品制作を行い、より深みとオリジナリティーのある作品づくりが可能になります。
 私はこれまでに、対話と関係性づくりを基盤とした作品制作を多く行ってきました。その上で、一見保管が難しいパフォーマンスを『いかに保存するか』について、カンファレンスなどを開き、考え、作品制作によって実践して来た経験をもとに、プロジェクト型の作品とコレクションとして歴史的に重要な碑となる作品を繋げる架け橋となる自負があります。
 だからこそ、私の作品によって、人間にとっての隠すや変化するということをより深くお互いの国が考えることができるようにしたいと考えています。

2014, Will I be beautiful or ugly tomorrow?

Will I be beautiful or ugly tomorrow? 
What torments us is the problem of ''the consistency of our sense of aesthetic self-worth.''  
With the development of things like fashion trends and selfie culture our sense of aesthetic self-worth falls under an external influence and is repeatedly lost. 
By arbitrarily substituting other people's body images, I am arbitrarily rewriting their aesthetic images. 
In addition, while they're deliberately associated with images of performance acts such as the demonstration and expression of pain, they are regarded as something different. 
When we cannot overcome the hesitation of deciding whether something can or cannot be replaced, we make a consistent replacement in the form of Art.
明日の私は美しいだろうか醜いだろうか
私たちを悩ませることは«自己の美意識の一貫性»の問題です。
自己の美意識は、ファッションやSelfie Cultureの発達のようにあらゆる他者から影響を受け、消失を繰り返しています。
私は、他者の身体イメージを恣意的に置換することによって他者の美的イメージを恣意的に編集します。
また、痛みの表明やデモなどのパフォーマンス行為のイメージを意図的になぞらえながら別のものに見立てます。
私たちは何かに置き換わることができ、かつできないという逡巡を、一貫性と置き換えによってアートにします。

2013, Removing the layers of ‘junk’ surrounding people

Walking While Covered."Removing the layers of 'junk' surrounding people"
This work treats transformation and makes use of my earlier themes, "removing coverings (clothing) from the body" and "unclassified performance areas."
Its theme is the layers of "junk" (everyday conflicts) that people use to cover (clothe) themselves, and how important it is, once named "junk" and classified, to remove them from the body.
かづき歩きするということ
“人間にまとわりつく『屑』を引き剥がす”
 私はこれまでに「かづく(かぶる)身体の剥離」「パフォーマンスの未分類」というテーマで主にトランスフォームを媒介とした作品を制作してきました。
 このテーマは人間にまとわりつく『屑=日々の葛藤』をかづかせ(かぶらせ)ることによって、『屑』に形を与え名前をつけて分類し、身体から引き剥がすことが重要です。

2011,Chimera

I.あるはずの風景を疾走しつづけるなくしもの。

II.損なわれた部品をひっそり(うっかり) とキッチュにすり替えて粘着。

III.日常に潜む心地悪さとささやかな安定感の境界線を緩やかに犯す。
I was born in a forest in Japan.
During my childhood,I was scared that my body might be cut down by a woodcutter.
Therefore,I started being interested in my existence as a person. Who can replace me? Can I get a new life?
"Objectivity" and "Oneness" is important in my work. How people see other people and how they react to other people's existence.
This  is my work, "Achela"."Achela "is a creature that I made fictionally. I was inspired by a Japanese monster.
This monster is often in a Japanese house,
looking like 10 year's old girl.It is said, she brings happiness.
But she is an invisible girl. Someone can see her,but others can not see.
This story taught us that happiness is found by the people who watch the world carefully. In the movie, some people look at Achela,but others do not.
I did this performance in Tokyo, Korea and so on.
In Tokyo,she looks like an invisible creature.
Tokyo people are shy.They do not care about her.
In Korea,people speak to her all the time.
In Helsinki, she looks like a christmas decoration. In the snow, they care about her body.
It was interesting to see how people acted in different situations.
For me, Achela started to look more three dimensional with those videos in different places.
Perhaps, she might eventually start walking out of the frame, out of the visual world into reality.

2010, As if you see my work feel you are seen.

Because my work has a naked body.A face, naked foots and naked boobs watch the audience.Though you think “it is walking straight” is going back and desire of seeing turn over.You have to realize you looks as if you are seen side.
見たいという欲求と反転する関係
私の作品を見た人は、「見られている」感覚を覚える。それは私の作品には剥き出しの顔があるからだ。顔は交感器官で、鑑賞者を見つめかえす。前進だと思っていたら車や人が反対に走って逆走していたり、見たいと言う欲求が反転したりする。見ている側だと思っていたら、見られている側にいつの間にか反転し、ただの鑑賞者ではいられなくなる。



cynical

先日、映画・ダイナーを見た後に、恐ろしくて完成度の高い夢を見ました。

まさにあのダイナーの華美な色彩のシーンの連続なのですが、最初のシーンでは、アメリカで会ったことのある友人が、2頭身になっているんですね。その友人とすれ違い、一瞬同一人物であることがわからず、振り返るところから始まりまして、途中で彼女と同棲している部屋に狂った大家がやってきて、平然と過ごし始めるというおかしな日常が始まります。彼女だけがまともなのですが、それ以外はみんなフリークスで、突然スプラッタし始めるので恐ろしい感じの世界観でした。

冒頭に出て来た2頭身の女性を勘違いで手術ショーに出してしまった経緯について知る人物を踊り場まで追いかけたところで夢は終わったのですが、やはり、映画を見て良かったと思いました。

私の予想では、まともな彼女が黒幕だと思うのですが。

また、アーティストステイトメントというよりも、活動の方向として

「シニカルな”まま”で、優しい世界を作る」

ということを考えたりしました。

天然パーマは「今は」表現だけど、小さい頃はそうじゃなかった

私は生まれつき、髪型に癖がある。

小学生の頃というのは、マイノリティ差別が激しかった。同年代の子たちからの目線を気にしていた。縮毛矯正も欠かせなかった。

30才になってやっと、「天然パーマっていいね」という言葉を素直に受け入れられるようになった。見た目は一つの表現だと受け入れられた。髪型は自分で選ぶことが出来る以上、表現になるのだ。

いじっていた側が自由の象徴として褒めてくる

『凪のお暇』というドラマを挙げて、「天然パーマって新しい時代の自由の象徴だね、かわいいよね」と、私に伝えた人を見て、私は結構驚いた。

「お前、天然パーマいじってた側やん」と。

私は子供の頃は、髪型を自分で変えることはできなかった。それは、子供であるがゆえの「選べなさ」だった。まっすぐが正しいと思っていた。だから、あの時の天然パーマは「表現ではない」。

キャラクターと髪型

キャラクターの髪型は、キャラクターの性格や心象を表すものとして広く用いられている。しかし、私はキャラクターではないので、私の髪型は性格を表していないし、ましてや心象も表していない。

「天然パーマは自由の象徴だね」

ということを、『凪のお暇』という作品の凪について言うのならわかる。

「天然パーマは、揺れる心を表しているんだね」

ということを、『弱虫ペダル』という作品の手嶋について言うのならわかる。

天然パーマは虚構の中では心象表現に有効だ。でも、私の髪型は、新しい時代の自由の象徴ではなく、単純に私のものだ。私は象徴になりたくない。

許可制の自由

私の髪型は、たまたま、巻き毛で、縮毛矯正にこだわらなくなっただけだ。矯正しなければならない、という強迫観念を捨てただけだ。

「強迫観念を捨てた」として扱われる「自由」ならいい。

でも、マジョリティのための「自由」にはなりたくない

マイノリティとして扱い、許可証を求めてきたくせに、今度は自由の象徴だと持ち上げられて、信じることは出来ない。 今、「自由の象徴」という風に褒めても、きっとすぐに、マジョリティ側は飽きるだろうと思っている。

私は、マジョリティ側のための「自由」にはなりたくなくて、「私のために自由」がいいなと思っている。

2020tokushima

公式サイト Website: https://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/event_calendar/index.html

Review: 「物語を紡ぎ、文化の変容に立ち会う──四国の二つの展覧会より 橘美貴(高松市美術館)」
「Weaving Stories and Attending Cultural Transformation: From Two Exhibitions in Shikoku 」 by TACHIBANA Miki (Takamatsu City Museum of Art)
https://artscape.jp/report/curator/10160457_1634.html?fbclid=IwAR151rXDOOhGRVi96I2LvYzMDc0A4i59dlB7LQHAyANBLdWrlBjSPkp8xEc

徳島市立徳島城博物館 ( TOKUSHIMA CITY TOKUSHIMA CASTLE MUSEUM )( 徳島市徳島町城内1番地の8 )(1-8 Tokushimajyocyojonai, Tokushima-city, Tokushima Prefecture, Japan)

「芸術ハカセは見た!~徳島のひみつ展~」Dr. ART witnessed! The exhibition of the secret of Tokushima

Period: 2020年1月9日〜24日 (9th to 24th January)

開館時間
Opening hour
午前9時30分から午後5時(入場時間は午後4時30分まで)
休館日
Closed
January 14(Tuesday),20(Monday)

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「芸術ハカセは見た!動画配信記録」記録・配信協力: みそにこみおでん https://note.com/misonikomi_oden/n/n7632fd10af98

2020年1月12日16:00~
芸術ハカセは見た!金藤みなみパフォーマンス「母の目」#芸術ハカセは見た 記録・配信協力:みそにこみおでん 協力:堺(妹)
https://www.pscp.tv/misonikomioden/1yoKMzwMmMlGQ

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Photo by TOKUSHIMA CITY TOKUSHIMA CASTLE MUSEUM
Photo by Ryota Niki
Photo by TOKUSHIMA CITY TOKUSHIMA CASTLE MUSEUM

鉢かづき姫について

本作は民話『鉢かづき姫』を語り直した作品だ。

「母娘相続」の過程を女性の自立として読み解く方法として、主に刺繍と被り物を用いたインスタレーションとパフォーマンスを行った。

刺繍や被り物では、物語を読み解くために作品を注意深く読み解き、作品の一部として参加し、追いかけていくこととなる。

刺繍とパフォーマンスでは、グリム版『シンデレラ』を参照し、相似する部分を際立させ、「娘が一人立ちするきっかけである水辺」を指摘する。

当日、performanceの前に5分ほどの語りが挟まれた。鉢かづき姫のあらすじや、時代による表現方法や強調点の違い、そしてパフォーマンスの動きを語りで説明した。語りの中では坪内逍遥版の戯曲や、折口信夫の解釈を紹介した。また、江戸時代に描かれた鉢かづき姫の絵が俯瞰であることから、「母の目線(鳥瞰図)」なのではないかいう解釈の刺繍作品や、折口信夫の対談をヒントに河童のモチーフで姫を捉えた刺繍作品が展示されていた。

パフォーマンスの流れは以下である。

母の目が描かれた刺繍を引きずり、上から眺める→庭へと鉢をかづいて歩いていく(その際目が追いかけてくる)→庭の水場で自己の姿を認める→鉢を脱ぎ、先ほどとは打って変わった足取りで軽快に走る。

本パフォーマンスを含む展評「物語を紡ぎ、文化の変容に立ち会う──四国の二つの展覧会より」で橘美貴(高松市美術館)が指摘するように、現代では語りなおす方法は多岐にわたる。物語という没入感を伴うものを体験するために、物語の生成過程を提示し、点在させることで、客観性をも求められる。主観と客観の両立こそが、物語をドライブさせるために必要なものなのではないだろうか。

本作のモチーフとなる民話との出会いは8年前にさかのぼる。まだ当民話を知らなかった時、「赤い痛みを三角だと感じる」という完成から、『ACHELA』という作品を制作した。 その作品を発表した際、鑑賞者に「鉢かづき姫に似ているね」と相似性を指摘されたことが、本作のインスピレーション元である民話『鉢かづき姫』との出会いのきっかけだった。

昔から伝わる民話が、様々な媒体を経て後世に伝えられる際、様々な解釈があっただろう。その様々な形を点在させて再度構築することで、 「母娘相続」「 娘が一人立ちするきっかけである水辺 」などの新たな解釈を提示するパフォーマンスとなった。

About Princess Hachi-Kazuki.

This work is a retelling of the folk tale ” Hachi-Kaduki Hime “.

As a way of interpreting the process of “mother-daughter inheritance” as women’s self-reliance, I created an installation and performance using mainly embroidery and clothing.

In embroidery and sheathing, the work is carefully read to decipher the narrative, participating and following it as part of the work.

In her embroidery and performance, she references the Grimm version of Cinderella, highlighting the similarities and pointing out “the water’s edge as the impetus for her daughter to stand on her own.

On the day of the performance, a five-minute narrative was interrupted before the performance. The narrative explained the plot of Princess Hachikaduki, the different ways of expression and emphasis in different periods, and the movement of the performance. In the narration, he introduced the play by TSUBOUCHI Shoyo and Origuchi Nobuo’s interpretation. Also on display were some embroidery works that were interpreted as a “bird’s eye view of a mother” because the picture of Princess Hazakaduki painted in the Edo period is a bird’s eye view, and some embroidery works that were inspired by a conversation with Nobuo Origuchi and captured the princess with a motif of a kappa.

The performance flow is as follows.

I dragged the embroidery of my mother’s eyes, looked at it from above, walked over the bowl to the garden (my eyes followed me as I did so), acknowledged my self at the garden watering hole, took off the bowl, and ran lightly with a different gait than before.

As Tachibana Miki (Takamatsu City Museum of Art) points out in her review of the exhibition that includes this performance, “Weaving Stories and Meeting the Transformation of Culture: From Two Exhibitions in Shikoku,” there are many ways to re-tell stories today. In order to experience the immersive nature of narrative, objectivity is also required by presenting and interspersing the process of story generation. Both subjectivity and objectivity is what drives the story, isn’t it?

The encounter with the folklore that is the motif of this film goes back eight years. When I didn’t know this folktale yet, I created the work “ACHELA” from the completion of “feeling the red pain as a triangle”. The inspiration for the film came from the folk tale “Princess Hachi-Kaduki” when an audience member pointed out the resemblance, saying, “You look like Princess Hachi-Kaduki.

There must have been many different interpretations of the folk tales that have been handed down from time to time through various media. The performance presented new interpretations of “mother-daughter inheritance” and “waterfront as an opportunity for daughters to stand on their own” by interspersing and reconstructing these various forms.

2019JULYbook

異類婚姻譚の「犬たち」、とてもよかった。あの冷たさ。「スミラの雪の感覚」を思い出し、とても癒された。その感覚でいくと、「ウォーターランド」が、最近は私を匿ってくれている。

reconsideration_taming

KINTO MINAMI’s the Taming of the Shrew

2019年7月18日にカオス*ラウンジの「芸術動画」にて講評をしていただきました。

  • ビデオ作品の踏み込みが甘い
  • ステイトメントがとっちらかってる

主にこの2点が重要だったと思います。

他の方の講評も大変参考になり、気になる作家さんとの出会いもありました。

  • 作品はまず衝動で作ってもよい
  • 作った後にゆっくり考えたり言葉にしてもよい
  • 作品を作った後によく考える時間をとり、次の作品へ

このあたりも、本当にそうだな、と思いました。
実際、会場では長いステイトメントは用意していなかったのですが、作品を再度考えるために、少しまた文章を書いて見ました。また何度か考え直してみたい作品です。

「金藤みなみのじゃじゃ馬ならし」

(シェイクスピアの)じゃじゃ馬ならしは劇中劇の構成をとる演劇ですが、劇中劇の外側の話に戻らずに話が終わります。まるで、現実から夢に移行し、夢から現実に戻らずに閉幕してしまったような構成です。私は、劇中劇のカテリーナが、男性が眼差す夢であるだけではなく、あらゆる性の眼差しの先にある夢にもなっていたのではないかと再解釈しました。視覚に自覚的になることで、視覚によって一方的に構築されてきた支配関係を「鬼ごっこ」のように、役割の交換可能性のあるものに組み換えました。

冒頭、顔を隠した人の顔を布越しに手で探るように確かめるシーンがあります。ある人(おそらく妹のビアンカ)がポエティックに「ねえ、お姉様、可愛いって気持ちは何かしら」と可愛さについて問いかける字幕が流れ、可愛さの定義が進むうちに、顔を隠した登場人物たちが、布をとりあって追いかけあう鬼ごっこへと発展します。散乱した布を片付け、その布を結んでやる者がいるなかでも、前は見えないまま、森の中へと皆で歩いていき、エンドロールが流れ映像は終わります。
不均衡な状況を、布で包むことによって(しいては皆で不都合をつかみとることによって)より根元的な欲望やエロスに従事させることは、私にとって、アイロニーを含みつつも、真に公平で美しくロマンチックに感じるものなのかもしれません。

2019年7月17日(木)


小説 「金藤みなみじゃじゃ馬ならし」について。

劇中劇のカテリーナが、男性の夢であるだけではなく、俳優ファンの女性たちの夢にもなっていたのではないか、ということを、ファンの冷静かつ過剰な純愛によって描きました。

じゃじゃ馬であるカテリーナは、結末に向かって男性の夢である理想的な女性へと変身していきます。なぜ、カテリーナが男性の夢そのものになるように駆り立てられたのでしょうか。「可愛い」と言われたいからです。「可愛い」と言われたいがために、男性の夢そのものになるように駆り立てられるのです。私は、カテリーナのようなポジションになる危険性を持っているので、男性の夢になりたがる気持ちがよくわかります。このような気持ちは、俳優であれば誰もが持つかもしれず、ファンを魅了するために、鑑賞者の夢であろうとします。この構造は、そもそも演劇という形式から逃れられないものです。鑑賞者の夢である演劇を「終わらせないまま」閉幕させたこの作品に対して、劇の外の人間たちが絡み合い過剰な程に激しい愛を持ち、見ることの欲望に自覚的であるように描きました。ビデオと同じく、主従関係を理不尽なほどにフラットにすることを考えていました。

2019年7月17日(木)

20190706_midcore

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Exhibition view

THE CRYING WOMEN

2018 video installation 4:54min. roop, solo channel video. Edition 10

名称 : TAV GALLERY 5th Anniversary Exhibition「MID CORE」
会期 : 2019年7月6日 (土) – 7月21日 (日)
会場 : TAV GALLERY (東京都杉並区阿佐谷北1-31-2) [03-3330-6881]
時間 : 13:00 – 20:00
休廊 : 水曜、木曜

出展作家 : 磯村暖、UMMMI.、遠藤麻衣、オートモアイ、金藤みなみ、草刈ミカ、熊倉涼子、縄文族、真珠子、菅原玄奨、鈴木操、高田冬彦、田中かえ、TYM344、永井天陽、中島晴矢、PERMINUTE、林千歩、彦坂尚嘉、馬嘉豪、MES

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