20200808

『房思琪(ファンスーチー)の初恋の楽園』を書いた林奕含が「文学に裏切られた」と言ったことは、私にとって忘れられない。

文学が裏切る、美術が裏切る、そういったことを頭ではわからないしそんな訳ないと言いたかったけど、肌でわかるときがある。こんなに愛した文学なのに裏切る。人に裏切られたのではなく、学びたくて学び続けたものが裏切る。

20200802

搬入を終えてみて、気づいたこと。

「ザ・マスクウーメン」の4のパートが「人と時代」なのだけど、2つとも誰かと作った作品だ。

ひとつはフリーランス編集長の西田篤史さんと。もうひとつは曽根安代さんと。後者は、「誰かと作った」という言い方は違うかもしれない。なぜなら、私が書いた小説を案として引用して描かれたまんがだからだ。(まんがの原案として描いたのではなく、インターネットで公開していたのを見つけてもらって描いてくださった)

今回は2のパートで様々な古典を引用しているが、4でついに私のほうが引用されることになっている。

今回は、3のパートのルネ・マグリットの世界大戦をオマージュした新作の発表だけでよかったかもしれないが、1から見ていくと本当に面白いと思うので、ぜひ見ていただけると嬉しい。

2020年8月10日まで。

サルビアホール公式ページはこちら

http://www.salvia-hall.jp/

salvia

2020年8月3日~10日(会期中無休)の展覧会のお知らせです。

感染症予防についてはこちらをご覧ください。

詳細

8月3日(月)~10日(月祝)【ヨコハマトリエンナーレ2020応援プログラム】 
サルビアホール現代美術展「ザ・マスクウーメン」金藤みなみ個展

日時12:00-20:00(8,9,10日は10時から)

鶴見区民文化センター サルビアホール(〒230-0051 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央1-31-2 シークレイン内 3階)
JR京浜東北線・鶴見線「鶴見」駅 東口から徒歩2分
京急本線「京急鶴見」駅 西口から徒歩2分 アクセス詳細

ギャラリー入場料無料

公式ページ http://www.salvia-hall.jp/event/?id=1594198589-614004

ヨコハマトリエンナーレ 2020 応援プログラム」の取り組みとは?

“ヨコハマトリエンナーレ2020と一緒に、横浜のまちを盛り上げイベントです。”-(https://www.yokohamatriennale.jp/2020/guide/feature/20200312/ ※募集要項より。上記赤字部分について敬語を常態語にして記載しました。)

当企画は「ヨコハマトリエンナーレ 2020 応援プログラム」の取り組みとして参加しておりますが、作品または展示はヨコハマトリエンナーレのディレクションを受けたものではありません。作品は独立しており、サルビアホールとともに展示を作っております。また、横浜のまちを盛り上げるイベントとしてどなたでも観賞していただけます(ただし、「横浜市文化施設感染症拡大防止ガイドライン」により入場数等を制限する場合がございます)。

以下は引用です。

応援プログラムの対象となる取組
対象は、次の項目をすべて満たす取組です。
(1) ヨコハマトリエンナーレ2020と一緒に、横浜のまちを盛り上げていただけるイベントであること。
(2) 文化・芸術分野におけるイベント(多様性を受け入れる社会の形成をめざし、さまざまな障壁を越えて誰もが文化・芸術を享受できる機会創出に貢献する活動やプログラム)。
(3)ヨコハマトリエンナーレ2020の会期中(令和2年7月17日から10月11日まで)に実施される活動であること。
※会期の日程を含んでいれば、開始日または終了日が会期外であっても構いません。
(4)誰でも参加・鑑賞可能なイベントであること(有料・無料は不問)。
(5)次のいずれにも該当しないイベントであること。
ア 特定の政党、その他の政治団体の利害に関係するもの
イ 特定の宗教、宗派、教団等の利害に関係するもの
ウ 暴力団の活動を助長し、または暴力団の運営に資するもの
エ 特定の個人及び団体を対象としているもの
オ 過去における後援等の名義使用において、使用承認の条件に違反した団体が主催するもの

https://www.yokohamatriennale.jp/2020/guide/feature/20200312/

www.yokohamatriennale.jp

各種リンク、チラシ画像

会期中無休、8,9,10日は朝10時からオープンです

www.salvia-hall.jp

www.salvia-hall.jp

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スチャラカな日々でも「私は何かを成し遂げなかった」と思う日は少ない。

私は毎日成し遂げている。twilogをたどると、2017年に私のタイムラインで悪夢を見ている人が多いと書かれていた。

そういうちょっとした生活を呟くのも良いが、初めて会った人がfacebookやTwitterのタイムラインを読むので作品のサムネイルをじゃんじゃん乗っける川のようになっていて、表層だけを名刺にしている。

何年か前の、別にだれもが喜ぶようなことを書けるわけじゃないが、スチャラカな呟きの方がよかったようなきもするが、とにかく初めて会った人が私の作品の表層を眺めるためのもてなしを今はやっている。

「『私が知る孤独』のための交換日記」

2020. ARR. 14 更新 交換日記 山羊座のパンのために Exchange diary for Pan, Capricornus
刺繍図案

孤独交換・貨幣交換はこちら

goldenmilk.theshop.jp

※画像刺繍はイメージです。

パフォーマンス「『私が知る孤独』のための交換日記」

こんにちは。アーティストの金藤みなみです。
パフォーマンスのお知らせです。
2343字の小説「私が知る孤独」(日本語)を1文字単位であなたの日記と交換し、送付します。

◆交換方法

1.貨幣交換
本ページ( https://goldenmilk.theshop.jp/items/27825547 )より500円の支払いにて全文字数をまとめて購入いただけます。貨幣交換の場合は全文字数の購入のみの対応となります。

◆「貨幣交換」販売開始時間
2020年5月1日 金曜日 午後1時(13時)から5月6日までを予定。また、予告なくクローズとなる可能性があります。

2. 孤独交換

お客様の日記1文字につき1文字交換いたします。

コンタクトフォーム( https://thebase.in/inquiry/goldenmilk-theshop-jp/ )

お名前、メールアドレス、電話番号(空欄では届かないので00000000000と記入ください)を記入いただき、
件名を「孤独交換」とし、お問い合わせ内容に交換希望の文字数分の日記を記入してください。お客様ご自身で日記をウェブ等で公開されてもかまいません。(日記のURLをご記入ください。)

※孤独交換はコンタクトフォームより日記をお送りください。
※孤独交換は4月から受付します。
※2020年5月6日クローズ予定です。
※437字以上~2343字以下とします。
※日記は、欲しい文字数分がコンタクトフォームの「お問い合わせ内容」に書かれていることが必要です。また、2343字を越えた場合でも、こちらからは2343字分(日記すべて)のみ送付することとします。
※交換された日記は展示等にて公開する可能性があります。

上記のいずれかにより交換していただけます。

◆受け取り方法

メール本文に記載し、返信いたします。

※We may do the performance in English, while this is in Japanese.

※手数料については、BASE公式ウェブサイトのFAQに一任しております。
◾️購入者側に手数料は発生しますか?
https://help.thebase.in/hc/ja/articles/206418841-%E8%B3%BC%E5%85%A5%E8%80%85%E5%81%B4%E3%81%AB%E6%89%8B%E6%95%B0%E6%96%99%E3%81%AF%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B-

※申し込み方法、期間などは予告なく変更する可能性があります。

※関連商品(アクセサリー、関連zine)は順次発売予定です。

孤独の交換ができます

from 2013 text

コンプレックス
A complex.

What is a complex? Why We feel border between ideal and reality? I’m just curious about what we really want to transform.

コンプレックスとは何ですか?なぜ私たちは理想と現実の間の境界を感じますか?私たちが本当に何に変身したいのかに興味があります。

2018

How to love the stranger in the ironical society.

The mask, the new sexism, the back to life perfume, the DMZ…, everything I will show you is how to love the stranger.
People are often afraid of strangers, they say “It is not one of us. ”, then accepting the stranger is hard, though all problem have to solve with other people. My answer is, to cry with them as the alien, as the tourist and as the friend. To treat those relationships as the same value at the same time is very important. First, I will know how to make the mask of the society which eliminate the minority, then I  will change my face, body, behavior as an alien, and also move it. I am in the alien side always. There is a touch of irony in mine. If you’re as terrified of an irony of fate as I am but also endlessly fascinated by it, then my art works is for you. I will show you how to love the town. I cry and walk on the lands, under heavens for them. This is my answer.

아이러니한 사회에서 “이방인” -The stranger- 을 사랑하는 방법.

 마스크, 새로운 성차별주의, 죽은 사람을 되살리는 향 냄새, 비무장지대(DMZ)… 제가 당신에게 제시하는 모든 것은,
이방인을 사랑하기 위한 방법입니다.

 사람들은 가끔 이방인을 두려워하고, “그들은 우리와 같은 사람이 아니야.” 라고 말합니다. 이방인을 받아들이는 것은
어렵지만, 모든 문제는 다른 사람들과 함께 해결해야만 합니다.

 저의 해답은, 외국인으로서, 여행자로서, 그리고 친구로서, 그들과 함께 외치는 것입니다. 동시에 이 모든 관계를, 같은
가치로써 동등하게 대하는 것은 매우 중요한 일입니다.

 먼저, 소수파를 배제하는 사회의 가면을 만드는 방법을 알고, 얼굴, 몸, 행동을 에일리언alien-외지인으로서 바꾸어
움직이게 합니다. 저는 언제나 에일리언alien -이질적인 사람의 편에 서 있습니다. 저의 표현에는 아이러니컬한 면이
있습니다.  저처럼 사회의 모순적인 부분을 미워하고 두려워하는 것뿐만이 아니라, 그 점에 끊임없이 매료되어 이끌린다면, 저의
예술작품은 당신을 위한 것입니다.

 전 거리를 사랑하는 방법을 당신에게 제시합니다. 전 외치며, 그들을 위해 하늘 아래 지면을 걸어갑니다.

 이것이 저의 해답입니다.

( 번역: 김지영 翻訳:金智暎 )   

皮肉な社会で見知らぬ人(異邦人, The stranger)を愛する方法。

マスク、新しいセクシズム、死者を蘇らせるお香、DMZ …、私があなたに示すすべては、見知らぬ人を愛する方法です。人々はしばしば見知らぬ人を恐れている、彼らは言う 「それは私たちの仲間ではない」。見知らぬ人を受け入れるのは難しいですが、すべての問題は他の人と一緒に解決しなければなりません。私の答えは、外国人として、旅行者として、そして友人として、彼らと一緒に叫ぶことです。同時に、これらの関係を同じ価値として扱うことは非常に重要です。まず、少数派を排除する社会の仮面を作る方法を知り、顔、体、行動をエイリアンとして変え、それを動かす。私は常にエイリアンの側にいる。私の表現には皮肉のように感じさせる面があります。私のように社会の皮肉を憎み恐れているだけでなく、それに絶え間なく魅了されているのなら、私の芸術作品はあなたのためのものです。
私は街を愛する方法をあなたに示します。私は叫び、彼らのために空の下の地面を歩いています。これが私の答えです。

2018.09.24

消費によって削られる装いを反映させたパフォーマンスを中心に、「同情とは何か」という問いとして作品制作を捉え、様々なアプローチをしてきた。身体は私たちに私たちの抱える問題の重みや質感を伝え、私たちの美意識がどのように生まれ、 どのように変化していくのかを確かめる装置だと仮定している。遠い他人の問題を共に考えることは、他人の仮面をよく知り、仮面を被り、クリーチャーのように自身を変化させる必要があった。他者の理解は問題解決に不可欠だが、よそ者を受け入れることは難しかった。よそ者であり、クリーチャーであり、旅行者であり、友愛のある隣人であることの可能性を模索している。

2017

2017.10.10

「同情とは何か」という問いとして作品制作を捉え、様々なアプローチをしている。

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきた。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、見ることと見られることが、いかに人間のイメージに影響を与えるかということです。ギミックによって、見ることの意味を逆転させることにも興味があります。

ギミックについて考えていたこと。

・入水自殺した遊女がモチーフ。川の流れに逆行する歩行パフォーマンス。記録映像を撮る。逆再生する。

・船上で殺された遊女高尾がモチーフ。反魂香を引用し、後ろ歩きのパフォーマンスを行う。ビデオに撮る。逆再生して見せる。歩いた参道を見せる。

・ナルキッソスが変身した「水仙」になる。変身の過程を化粧や着替えを含めて見せる。

2017.4.3

The abyss of performance

Performers are seen. Simultaneously participants are seen by the performer. At any time, the performance is established by being seen.
Turn things around and the performance is seeing participants and a performer.
 
The act of “seeing” cannot be separated from the thought of the brain.
“When I was a child, I memorized what I saw for the first time in my brain. For example I might say to myself “this is a  chair.” This kind of procedure helped me to identify objects I encountered in daily life.
To see is to understand. To see is to classify. It is as if we have a genre-classifying folder in the brain, but then suddenly when we come up against a work which we cannot classify, which we cannot divide into genres, it is useful to have an “unclassified” place to slot it. The area that our “unclassified “ category covers however, cannot be too vast, otherwise too much will be swallowed up in this nondescript place.
 
Concerning sympathy….we can construct “sympathy folders” which will contain our expressions of sympathy towards them.
 
I started acting and I have created performance and visual art. What I am always interested in is a contradiction that exists
within the concept of “seeing”. Performance is unclassified and yet we can not see without classification. We are being seen,always, by the gentle and dreadful abyss of performance.

 

「パフォーマンスという深淵」(Long)

パフォーマーは、見られている。同時に、観客もパフォーマーに見られている。いつでも、パフォーマンスは見られることで成立します。ひっくり返して言えば、パフォーマンスが、私たちパフォーマーと、観客を見ているのです。

“見る”行為は脳の思考と切り離せない。
子どもの頃、はいはいをして進む度に景色は変わって行った。目の前にあった大きな椅子の足が、すこし椅子から離れると小さく見えた。今では遠近法やパースなどを理解しているから、理屈はわかる。しかし、自身の位置によって目の前にある椅子すらも刻々と姿が変わる様に知覚する。すると、一つの椅子として認識出来ない。これでは日常生活を送る事ができない。困る。だから、“これは椅子だ”と括ることを覚える。一度飲み込めないものでもとりあえず“見た”ことにしておく。よって、見る事は分かることであり、分類である。
まるで脳の中にジャンル分けのフォルダーを持っているようだ。
脳の中でのフォルダー分けについてもう少し触れておく。さっきの椅子の例では「見ること」は思考が切り離せない、とした。では、「見た」ものの思考整理についてはどうだろうか。例えばブログを書く時。自身でフォルダ分けする人は多い。「花火の思い出」「友達の家で」などと振り分けて行っても、ふとジャンル分けしきれない記事にぶつかることがある。そのような時、「未分類」に振り分けておくと、後々テーマを決めることもできて便利ではないだろうか。私は映像記録をパソコンに保存する時、いつもシリーズによって分類する。「あれ、これはどのシリーズに入れようと思っていたかな?」と思い出せない時、賢いパーソナルコンピューターは、“「未分類」に振り分けますか?”と、私に問う。慌てた私は”はい”を選び、それを「未分類」と名付けてしまう。
これは「この作品は分類しきれない」と決断することと同じだ。他に分類したつもりの作品も、実は分類なんかしきれていないんじゃないか、という一抹の不安が頭をかすめる。未分類とは、分類しきれなかったものであり、実際「フォルダー分けせずにただ見る」ことを許すフォルダーだ。

同情心について。シンパシーであれば、他人のフォルダーを閲覧し、可哀そうだと思うだけで良いですが、エンパシーは、他人の痛みのフォルダーが、自分のフォルダーそのものになってしまいます。このように同化してしまう時、精神がどうにかならないように、私たちは冷静に、「見る」ことに立ち返らなければいけません。「見られ」ながら、「見る」こと。自らを自分としてまとまりもたせる“役”を用意する必要があります。
 

このように、未分類は分類しきれなかった“わけがわからないもの”だけがパフォーマンスである。しかし、見ることによってのみ、パフォーマンスは成立する。この矛盾を同時に成立させる現象が、「パフォーマンスに見られている」である。

 

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきました。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、“見る”事につきまとう矛盾です。パフォーマンスは、未分類だけれど、分類しなければ私たちは見ることができない。私たちは見られている、いつも、優しくて恐ろしい、パフォーマンスという深淵に。

修士論文:『パフォーマンスの未分類』

 

2017, The abyss called the Performance(short)

パフォーマーは、見られている。同時に、観客もパフォーマーに見られている。いつでも、パフォーマンスは見られることで成立します。ひっくり返して言えば、パフォーマンスが、私たちパフォーマーと、観客を見ているのです。

“見る”行為は脳の思考と切り離せません。
子どもの頃、日常生活を送る為に、初めて見たものを脳の中で“これは椅子だ”というように、括ることを覚えます。見る事は分かることであり、分類です。まるで脳の中にジャンル分けのフォルダーを持っているようです。ふと、ジャンル分けしきれない作品にぶつかった時、「未分類」に振り分けておくと、後々便利です。ただし、未分類が膨れ上がれば、私たちはそれを認識することはできません。未分類に飲み込まれてはいけないのです。けれど、同時に、未分類を作らなければ、私たちは活動を進めることができません。

同情心について。シンパシーであれば、他人のフォルダーを閲覧し、可哀そうだと思うだけで良いですが、エンパシーは、他人の痛みのフォルダーが、自分のフォルダーそのものになってしまいます。このように同化してしまう時、精神がどうにかならないように、私たちは冷静に、「見る」ことに立ち返らなければいけません。「見られ」ながら、「見る」こと。自らを自分としてまとまりもたせる“役”を用意する必要があります。

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきました。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、“見る”事につきまとう矛盾です。パフォーマンスは、未分類だけれど、分類しなければ私たちは見ることができない。私たちは見られている、いつも、優しくて恐ろしい、パフォーマンスという深淵に。
3.April.2017

2017, terrible love

酷い愛
他者の痛みに同情心を持つ自分自身に後ろめたさを感じる。
後ろめたさの中にしか美しさは無い、と仮定する。
人間にとっての隠す・すり替える・変化する行為を劇の暴力性をもってなぞり、酷い愛、を「芸術」として提出する。 2017.2.26

2016, Removing the junk

人間にまとわりつく『屑』を引き剥がす。
装身具(デコレーション)とパフォーマンスを用いて、「他者の痛みと同情(シンパシー)」を主題に、歴史的な重みのあるものをエレガントでチャーミングなモノに変える。
・突然モンスターに変身する
・他者の思想にトランスフォームする
・すべてが後ろ向きに帰っていく
“Removing the layers of 'junk' surrounding people.”
・Sudden transformation into a monster
・transformation into other’s thought
・Everything goes back home

2015, Exporting Complexes-Emphasizing, recording, and considering

As expressions of transformation are important to Japanese culture, the country's characters and cosplay have been in recent years increasingly exported abroad. Beasts and avatars with human minds are returning to fill the streets.
But are these things being exported accurately? Our bodies undergo a daily process of transformation and renewal through our personal circumstances and complexes, and when we face the pains of others or consider the human condition, we are in the middle of that constant process. In other words people enjoy cosplay while carrying the confusion and complexes, the negative emotions, of their original selves. Their initial goal is to hide these things.
Approaching the culture simply as an outside admirer, one can fail to examine these original selves and overlook the true purpose behind the whole culture. In reality, it is not mere imitation, but rather a way of creating a better version of oneself in DIY form while preserving one's own identity, a kind of makeup applied to their original selves or a "selfie." I will look into the actions that are taken to preserve this kind of complexly intertwined movement. Avoiding the surface of cultural exportation, I want to deal with the universal beauty to be found in the more fundamental desire for human self-expression.
Opening up new paths in the context of recent experiments at the MOMA and TATE in preserving their performance collection that have attracted notice, I want to transmit these things to people, primarily the artists and curators of Japan, connecting them to that lineage.
Also, regarding these expressions of transformation which form a representative part of both Japanese and American cultural expressions, I will add my investigations coming out of my exhibitions which have focused primarily on interviews, coverings, and the creation of masks.
In this way, by classifying and considering the movement, I can record the context for these expressions of transformation and help to preserve its important works. Also, as these expressions are something that comes from the individual, that person will create something that has their own personality, making more deeply original creations possible.
To this point, I have created many works on a foundation of dialogue and the formation of relationships. More importantly, I am proud to have created, in my collections and projects, something which forms a historically important monument and a bridge to these works, with conferences, consideration, and through experience coming from the actual creation of works, all in regards to the question of how to preserve a performance that would appear difficult to capture.
That is why, through my works, I want to help our two countries to consider those things which humans attempt to conceal or change.

コンプレックスを輸出する — 強調する、記録する、そして考える

 変身表現は日本文化にとって重要なもので、近年ではキャラクターやコスプレの海外輸出が盛んです。人間のような心をもった妖怪やアバターが 街には溢れ帰っています。
 しかし、それはきちんと輸出していることになるのでしょうか。私たちの身体は、個人の事情やコンプレックスにより、日々変身と改善を繰り返し、時には他者の苦痛へのまなざしや人間の条件を考え、絶えざる変化の中にいます。つまり、人は元の姿への戸惑いやコンプレックスといったマイナスの感情を持ってコスプレに興じることもあるのです。そもそも、隠すという行為が目的でもあるのです。
 憧れに近づくだけの文化として捉えると、元の姿を吟味する側面を見逃し、この文化の真意を見逃してしまいます。実際は、単なる模倣ではなく、自分の元の姿を基盤としたメイク方法や、『自撮り』のように自分自身であるというアイデンティティを保ちながらよりよい自分自身をDIY形式で創り出すような方法があります。このように複雑に絡み合ったムーブメントを保存するような動きを検討します。表面的な文化輸出を避け、より根源的な人間の表現欲求を見つめることで、普遍的な美に取り組みます。
 この事で、近年MOMAやTATEで注目されているパフォーマンスをコレクションとして保管するような試みの文脈に則った道筋を新たに創り出し、日本のアーティスト・キュレーターを中心とした人々に伝えることで、系譜をつなぎます。
 また、変身表現という日本及び米国の代表的な文化類型について、インタビュー及びかぶり物やマスクの制作を中心とした展示による検討を加えます。
 このように、ムーブメントを分類して考えることで、変身表現の文脈を記録し、重要な作品を保管することにつながります。また、そのような表現を実際に自身が行うことによって、当事者性を持った作品制作を行い、より深みとオリジナリティーのある作品づくりが可能になります。
 私はこれまでに、対話と関係性づくりを基盤とした作品制作を多く行ってきました。その上で、一見保管が難しいパフォーマンスを『いかに保存するか』について、カンファレンスなどを開き、考え、作品制作によって実践して来た経験をもとに、プロジェクト型の作品とコレクションとして歴史的に重要な碑となる作品を繋げる架け橋となる自負があります。
 だからこそ、私の作品によって、人間にとっての隠すや変化するということをより深くお互いの国が考えることができるようにしたいと考えています。

2014, Will I be beautiful or ugly tomorrow?

Will I be beautiful or ugly tomorrow? 
What torments us is the problem of ''the consistency of our sense of aesthetic self-worth.''  
With the development of things like fashion trends and selfie culture our sense of aesthetic self-worth falls under an external influence and is repeatedly lost. 
By arbitrarily substituting other people's body images, I am arbitrarily rewriting their aesthetic images. 
In addition, while they're deliberately associated with images of performance acts such as the demonstration and expression of pain, they are regarded as something different. 
When we cannot overcome the hesitation of deciding whether something can or cannot be replaced, we make a consistent replacement in the form of Art.
明日の私は美しいだろうか醜いだろうか
私たちを悩ませることは«自己の美意識の一貫性»の問題です。
自己の美意識は、ファッションやSelfie Cultureの発達のようにあらゆる他者から影響を受け、消失を繰り返しています。
私は、他者の身体イメージを恣意的に置換することによって他者の美的イメージを恣意的に編集します。
また、痛みの表明やデモなどのパフォーマンス行為のイメージを意図的になぞらえながら別のものに見立てます。
私たちは何かに置き換わることができ、かつできないという逡巡を、一貫性と置き換えによってアートにします。

2013, Removing the layers of ‘junk’ surrounding people

Walking While Covered."Removing the layers of 'junk' surrounding people"
This work treats transformation and makes use of my earlier themes, "removing coverings (clothing) from the body" and "unclassified performance areas."
Its theme is the layers of "junk" (everyday conflicts) that people use to cover (clothe) themselves, and how important it is, once named "junk" and classified, to remove them from the body.
かづき歩きするということ
“人間にまとわりつく『屑』を引き剥がす”
 私はこれまでに「かづく(かぶる)身体の剥離」「パフォーマンスの未分類」というテーマで主にトランスフォームを媒介とした作品を制作してきました。
 このテーマは人間にまとわりつく『屑=日々の葛藤』をかづかせ(かぶらせ)ることによって、『屑』に形を与え名前をつけて分類し、身体から引き剥がすことが重要です。

2011,Chimera

I.あるはずの風景を疾走しつづけるなくしもの。

II.損なわれた部品をひっそり(うっかり) とキッチュにすり替えて粘着。

III.日常に潜む心地悪さとささやかな安定感の境界線を緩やかに犯す。
I was born in a forest in Japan.
During my childhood,I was scared that my body might be cut down by a woodcutter.
Therefore,I started being interested in my existence as a person. Who can replace me? Can I get a new life?
"Objectivity" and "Oneness" is important in my work. How people see other people and how they react to other people's existence.
This  is my work, "Achela"."Achela "is a creature that I made fictionally. I was inspired by a Japanese monster.
This monster is often in a Japanese house,
looking like 10 year's old girl.It is said, she brings happiness.
But she is an invisible girl. Someone can see her,but others can not see.
This story taught us that happiness is found by the people who watch the world carefully. In the movie, some people look at Achela,but others do not.
I did this performance in Tokyo, Korea and so on.
In Tokyo,she looks like an invisible creature.
Tokyo people are shy.They do not care about her.
In Korea,people speak to her all the time.
In Helsinki, she looks like a christmas decoration. In the snow, they care about her body.
It was interesting to see how people acted in different situations.
For me, Achela started to look more three dimensional with those videos in different places.
Perhaps, she might eventually start walking out of the frame, out of the visual world into reality.

2010, As if you see my work feel you are seen.

Because my work has a naked body.A face, naked foots and naked boobs watch the audience.Though you think “it is walking straight” is going back and desire of seeing turn over.You have to realize you looks as if you are seen side.
見たいという欲求と反転する関係
私の作品を見た人は、「見られている」感覚を覚える。それは私の作品には剥き出しの顔があるからだ。顔は交感器官で、鑑賞者を見つめかえす。前進だと思っていたら車や人が反対に走って逆走していたり、見たいと言う欲求が反転したりする。見ている側だと思っていたら、見られている側にいつの間にか反転し、ただの鑑賞者ではいられなくなる。



cynical

先日、映画・ダイナーを見た後に、恐ろしくて完成度の高い夢を見ました。

まさにあのダイナーの華美な色彩のシーンの連続なのですが、最初のシーンでは、アメリカで会ったことのある友人が、2頭身になっているんですね。その友人とすれ違い、一瞬同一人物であることがわからず、振り返るところから始まりまして、途中で彼女と同棲している部屋に狂った大家がやってきて、平然と過ごし始めるというおかしな日常が始まります。彼女だけがまともなのですが、それ以外はみんなフリークスで、突然スプラッタし始めるので恐ろしい感じの世界観でした。

冒頭に出て来た2頭身の女性を勘違いで手術ショーに出してしまった経緯について知る人物を踊り場まで追いかけたところで夢は終わったのですが、やはり、映画を見て良かったと思いました。

私の予想では、まともな彼女が黒幕だと思うのですが。

また、アーティストステイトメントというよりも、活動の方向として

「シニカルな”まま”で、優しい世界を作る」

ということを考えたりしました。

天然パーマは「今は」表現だけど、小さい頃はそうじゃなかった

私は生まれつき、髪型に癖がある。

小学生の頃というのは、マイノリティ差別が激しかった。同年代の子たちからの目線を気にしていた。縮毛矯正も欠かせなかった。

30才になってやっと、「天然パーマっていいね」という言葉を素直に受け入れられるようになった。見た目は一つの表現だと受け入れられた。髪型は自分で選ぶことが出来る以上、表現になるのだ。

いじっていた側が自由の象徴として褒めてくる

『凪のお暇』というドラマを挙げて、「天然パーマって新しい時代の自由の象徴だね、かわいいよね」と、私に伝えた人を見て、私は結構驚いた。

「お前、天然パーマいじってた側やん」と。

私は子供の頃は、髪型を自分で変えることはできなかった。それは、子供であるがゆえの「選べなさ」だった。まっすぐが正しいと思っていた。だから、あの時の天然パーマは「表現ではない」。

キャラクターと髪型

キャラクターの髪型は、キャラクターの性格や心象を表すものとして広く用いられている。しかし、私はキャラクターではないので、私の髪型は性格を表していないし、ましてや心象も表していない。

「天然パーマは自由の象徴だね」

ということを、『凪のお暇』という作品の凪について言うのならわかる。

「天然パーマは、揺れる心を表しているんだね」

ということを、『弱虫ペダル』という作品の手嶋について言うのならわかる。

天然パーマは虚構の中では心象表現に有効だ。でも、私の髪型は、新しい時代の自由の象徴ではなく、単純に私のものだ。私は象徴になりたくない。

許可制の自由

私の髪型は、たまたま、巻き毛で、縮毛矯正にこだわらなくなっただけだ。矯正しなければならない、という強迫観念を捨てただけだ。

「強迫観念を捨てた」として扱われる「自由」ならいい。

でも、マジョリティのための「自由」にはなりたくない

マイノリティとして扱い、許可証を求めてきたくせに、今度は自由の象徴だと持ち上げられて、信じることは出来ない。 今、「自由の象徴」という風に褒めても、きっとすぐに、マジョリティ側は飽きるだろうと思っている。

私は、マジョリティ側のための「自由」にはなりたくなくて、「私のために自由」がいいなと思っている。

2020tokushima

公式サイト Website: https://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/event_calendar/index.html

Review: 「物語を紡ぎ、文化の変容に立ち会う──四国の二つの展覧会より 橘美貴(高松市美術館)」
「Weaving Stories and Attending Cultural Transformation: From Two Exhibitions in Shikoku 」 by TACHIBANA Miki (Takamatsu City Museum of Art)
https://artscape.jp/report/curator/10160457_1634.html?fbclid=IwAR151rXDOOhGRVi96I2LvYzMDc0A4i59dlB7LQHAyANBLdWrlBjSPkp8xEc

徳島市立徳島城博物館 ( TOKUSHIMA CITY TOKUSHIMA CASTLE MUSEUM )( 徳島市徳島町城内1番地の8 )(1-8 Tokushimajyocyojonai, Tokushima-city, Tokushima Prefecture, Japan)

「芸術ハカセは見た!~徳島のひみつ展~」Dr. ART witnessed! The exhibition of the secret of Tokushima

Period: 2020年1月9日〜24日 (9th to 24th January)

開館時間
Opening hour
午前9時30分から午後5時(入場時間は午後4時30分まで)
休館日
Closed
January 14(Tuesday),20(Monday)

Archive

「芸術ハカセは見た!動画配信記録」記録・配信協力: みそにこみおでん https://note.com/misonikomi_oden/n/n7632fd10af98

2020年1月12日16:00~
芸術ハカセは見た!金藤みなみパフォーマンス「母の目」#芸術ハカセは見た 記録・配信協力:みそにこみおでん 協力:堺(妹)
https://www.pscp.tv/misonikomioden/1yoKMzwMmMlGQ

Documents

Photo by TOKUSHIMA CITY TOKUSHIMA CASTLE MUSEUM
Photo by Ryota Niki
Photo by TOKUSHIMA CITY TOKUSHIMA CASTLE MUSEUM

鉢かづき姫について

本作は民話『鉢かづき姫』を語り直した作品だ。

「母娘相続」の過程を女性の自立として読み解く方法として、主に刺繍と被り物を用いたインスタレーションとパフォーマンスを行った。

刺繍や被り物では、物語を読み解くために作品を注意深く読み解き、作品の一部として参加し、追いかけていくこととなる。

刺繍とパフォーマンスでは、グリム版『シンデレラ』を参照し、相似する部分を際立させ、「娘が一人立ちするきっかけである水辺」を指摘する。

当日、performanceの前に5分ほどの語りが挟まれた。鉢かづき姫のあらすじや、時代による表現方法や強調点の違い、そしてパフォーマンスの動きを語りで説明した。語りの中では坪内逍遥版の戯曲や、折口信夫の解釈を紹介した。また、江戸時代に描かれた鉢かづき姫の絵が俯瞰であることから、「母の目線(鳥瞰図)」なのではないかいう解釈の刺繍作品や、折口信夫の対談をヒントに河童のモチーフで姫を捉えた刺繍作品が展示されていた。

パフォーマンスの流れは以下である。

母の目が描かれた刺繍を引きずり、上から眺める→庭へと鉢をかづいて歩いていく(その際目が追いかけてくる)→庭の水場で自己の姿を認める→鉢を脱ぎ、先ほどとは打って変わった足取りで軽快に走る。

本パフォーマンスを含む展評「物語を紡ぎ、文化の変容に立ち会う──四国の二つの展覧会より」で橘美貴(高松市美術館)が指摘するように、現代では語りなおす方法は多岐にわたる。物語という没入感を伴うものを体験するために、物語の生成過程を提示し、点在させることで、客観性をも求められる。主観と客観の両立こそが、物語をドライブさせるために必要なものなのではないだろうか。

本作のモチーフとなる民話との出会いは8年前にさかのぼる。まだ当民話を知らなかった時、「赤い痛みを三角だと感じる」という完成から、『ACHELA』という作品を制作した。 その作品を発表した際、鑑賞者に「鉢かづき姫に似ているね」と相似性を指摘されたことが、本作のインスピレーション元である民話『鉢かづき姫』との出会いのきっかけだった。

昔から伝わる民話が、様々な媒体を経て後世に伝えられる際、様々な解釈があっただろう。その様々な形を点在させて再度構築することで、 「母娘相続」「 娘が一人立ちするきっかけである水辺 」などの新たな解釈を提示するパフォーマンスとなった。

About Princess Hachi-Kazuki.

This work is a retelling of the folk tale ” Hachi-Kaduki Hime “.

As a way of interpreting the process of “mother-daughter inheritance” as women’s self-reliance, I created an installation and performance using mainly embroidery and clothing.

In embroidery and sheathing, the work is carefully read to decipher the narrative, participating and following it as part of the work.

In her embroidery and performance, she references the Grimm version of Cinderella, highlighting the similarities and pointing out “the water’s edge as the impetus for her daughter to stand on her own.

On the day of the performance, a five-minute narrative was interrupted before the performance. The narrative explained the plot of Princess Hachikaduki, the different ways of expression and emphasis in different periods, and the movement of the performance. In the narration, he introduced the play by TSUBOUCHI Shoyo and Origuchi Nobuo’s interpretation. Also on display were some embroidery works that were interpreted as a “bird’s eye view of a mother” because the picture of Princess Hazakaduki painted in the Edo period is a bird’s eye view, and some embroidery works that were inspired by a conversation with Nobuo Origuchi and captured the princess with a motif of a kappa.

The performance flow is as follows.

I dragged the embroidery of my mother’s eyes, looked at it from above, walked over the bowl to the garden (my eyes followed me as I did so), acknowledged my self at the garden watering hole, took off the bowl, and ran lightly with a different gait than before.

As Tachibana Miki (Takamatsu City Museum of Art) points out in her review of the exhibition that includes this performance, “Weaving Stories and Meeting the Transformation of Culture: From Two Exhibitions in Shikoku,” there are many ways to re-tell stories today. In order to experience the immersive nature of narrative, objectivity is also required by presenting and interspersing the process of story generation. Both subjectivity and objectivity is what drives the story, isn’t it?

The encounter with the folklore that is the motif of this film goes back eight years. When I didn’t know this folktale yet, I created the work “ACHELA” from the completion of “feeling the red pain as a triangle”. The inspiration for the film came from the folk tale “Princess Hachi-Kaduki” when an audience member pointed out the resemblance, saying, “You look like Princess Hachi-Kaduki.

There must have been many different interpretations of the folk tales that have been handed down from time to time through various media. The performance presented new interpretations of “mother-daughter inheritance” and “waterfront as an opportunity for daughters to stand on their own” by interspersing and reconstructing these various forms.

2019JULYbook

異類婚姻譚の「犬たち」、とてもよかった。あの冷たさ。「スミラの雪の感覚」を思い出し、とても癒された。その感覚でいくと、「ウォーターランド」が、最近は私を匿ってくれている。

reconsideration_taming

KINTO MINAMI’s the Taming of the Shrew

2019年7月18日にカオス*ラウンジの「芸術動画」にて講評をしていただきました。

  • ビデオ作品の踏み込みが甘い
  • ステイトメントがとっちらかってる

主にこの2点が重要だったと思います。

他の方の講評も大変参考になり、気になる作家さんとの出会いもありました。

  • 作品はまず衝動で作ってもよい
  • 作った後にゆっくり考えたり言葉にしてもよい
  • 作品を作った後によく考える時間をとり、次の作品へ

このあたりも、本当にそうだな、と思いました。
実際、会場では長いステイトメントは用意していなかったのですが、作品を再度考えるために、少しまた文章を書いて見ました。また何度か考え直してみたい作品です。

「金藤みなみのじゃじゃ馬ならし」

(シェイクスピアの)じゃじゃ馬ならしは劇中劇の構成をとる演劇ですが、劇中劇の外側の話に戻らずに話が終わります。まるで、現実から夢に移行し、夢から現実に戻らずに閉幕してしまったような構成です。私は、劇中劇のカテリーナが、男性が眼差す夢であるだけではなく、あらゆる性の眼差しの先にある夢にもなっていたのではないかと再解釈しました。視覚に自覚的になることで、視覚によって一方的に構築されてきた支配関係を「鬼ごっこ」のように、役割の交換可能性のあるものに組み換えました。

冒頭、顔を隠した人の顔を布越しに手で探るように確かめるシーンがあります。ある人(おそらく妹のビアンカ)がポエティックに「ねえ、お姉様、可愛いって気持ちは何かしら」と可愛さについて問いかける字幕が流れ、可愛さの定義が進むうちに、顔を隠した登場人物たちが、布をとりあって追いかけあう鬼ごっこへと発展します。散乱した布を片付け、その布を結んでやる者がいるなかでも、前は見えないまま、森の中へと皆で歩いていき、エンドロールが流れ映像は終わります。
不均衡な状況を、布で包むことによって(しいては皆で不都合をつかみとることによって)より根元的な欲望やエロスに従事させることは、私にとって、アイロニーを含みつつも、真に公平で美しくロマンチックに感じるものなのかもしれません。

2019年7月17日(木)


小説 「金藤みなみじゃじゃ馬ならし」について。

劇中劇のカテリーナが、男性の夢であるだけではなく、俳優ファンの女性たちの夢にもなっていたのではないか、ということを、ファンの冷静かつ過剰な純愛によって描きました。

じゃじゃ馬であるカテリーナは、結末に向かって男性の夢である理想的な女性へと変身していきます。なぜ、カテリーナが男性の夢そのものになるように駆り立てられたのでしょうか。「可愛い」と言われたいからです。「可愛い」と言われたいがために、男性の夢そのものになるように駆り立てられるのです。私は、カテリーナのようなポジションになる危険性を持っているので、男性の夢になりたがる気持ちがよくわかります。このような気持ちは、俳優であれば誰もが持つかもしれず、ファンを魅了するために、鑑賞者の夢であろうとします。この構造は、そもそも演劇という形式から逃れられないものです。鑑賞者の夢である演劇を「終わらせないまま」閉幕させたこの作品に対して、劇の外の人間たちが絡み合い過剰な程に激しい愛を持ち、見ることの欲望に自覚的であるように描きました。ビデオと同じく、主従関係を理不尽なほどにフラットにすることを考えていました。

2019年7月17日(木)

20190706_midcore

detail
Exhibition view

THE CRYING WOMEN

2018 video installation 4:54min. roop, solo channel video. Edition 10

名称 : TAV GALLERY 5th Anniversary Exhibition「MID CORE」
会期 : 2019年7月6日 (土) – 7月21日 (日)
会場 : TAV GALLERY (東京都杉並区阿佐谷北1-31-2) [03-3330-6881]
時間 : 13:00 – 20:00
休廊 : 水曜、木曜

出展作家 : 磯村暖、UMMMI.、遠藤麻衣、オートモアイ、金藤みなみ、草刈ミカ、熊倉涼子、縄文族、真珠子、菅原玄奨、鈴木操、高田冬彦、田中かえ、TYM344、永井天陽、中島晴矢、PERMINUTE、林千歩、彦坂尚嘉、馬嘉豪、MES

201906_swimlikeahammer

Information

自由出品にて参加予定
「After Opening」 6/22(土) ~ 7/7(日) 14:00 ~ 20:00 金土日祝のみオープン 投げ銭制 新宿区四谷4-13-1 四谷未確認スタジオ

https://www.yotsuyamikakunin.com

Front view
Side view

format

アーティストサインの入ったエディション1/100のレーザープリントと99枚のレーザープリント(それぞれ182×257mm)および刺繍で出来たソフトスカルプチャー(190×100×48mm)で構成されるインスタレーション。エディション2/100から100/100までの紙片は全ての来場者に1人1枚ずつ1/100をのぞいて提供され、配布用紙が無くなり次第配布提供を終了する。配布用紙は追加提供されない。著作権・頒布権・改変権・翻案権は作者がこれを保持する。

An installation consisting of an edition 1/100 laser print with an artist sign, 99 laser prints (182 x 257 mm each) and a soft sculpture (190 x 100 x 48 mm) made with embroidery. Pieces of paper from edition 2/100 to 100/100 will be provided to all visitors one at a time, 1/100, and distribution will end as soon as the distribution forms are exhausted. No additional distribution forms are provided. The author holds the copyright, distribution right, modification right and adaptation right.

暴動の日

星空文庫にも公開していて、チャプターで分かれているのでわかりやすいです。

金藤みなみ「暴動の日」

2040年

生まれた子供をロケットに入れることは、まるで自分が地面から5センチ浮いているような、不安定な気分にさせられた。

ロケット。これに入れれば、子供たちは年金を払わなくていいのだ。生まれたときにこうしてくれていたら、僕だって幸せだったのに。

こういう、親がこういう習い事を教えてくれていたらとか、もっと勉強しやすい環境だったらとか、スポーツに資金をかけることに理解があったらとか、いまだに思うけど、結局、今は、『年金に縛られたこの世界に子供を生んでいいのか』ということで、僕は頭をかきむしることになった。

僕としては、生きられる年齢を縛られた方がよっぽど良いと思って、それを選んだ。

しかし、僕は選んでいたようで、結局のところ、テルに選ばされていたのだろうか。

むしろ、親にその制度を選んでもらえていたら、今まで払ってきて、しかも返ってこない掛け金を、全部取り返せていたという、どうしようもない憎悪を、どうすることもできなかった。

だから、年金から逃げ続ける、30年に縛られた命を、僕は僕たちの子供に保証した.

だけど、その子は、いつか親としての僕を憎むのだろうか。

本当にこれでいいのか、決めていたのに、これから自分自身が死ににいくという時に、今更迷った。

僕は、あと24時間後、ロケットに乗る、つまり、死ぬ。

それまでに、僕たちの狂った日、いや、狂っていなくて正しい日、つまり、暴動の日についてを配信しておきたい。

そのためには、ロケッターについて、暴動の日の主犯についてを話しておかねばならない。

ロケッター(ロケット世代)のこと

年金制度が死んでから、新しく始まったのが、ロケット契約に代表される制度だった。

年金制度自体はなくならず、だんだんと、学生にも、10代にも、納税義務が課せられるようになった。

安楽死が合法化され、腹の底から死にたがる子供が増え、ゆとり世代と言われた30代が未来に失望してこぞって死んだ。

また、安楽死はだいたい70才からというのが(年金が支払われるのがかつては70才だったからか)定説となり、安楽死を自身で保険証に書き込んでおく欄ができた(もちろん、自由意志に任されているが)。だいたいは70才と書き込むことが多かったが、だんだんと、その年齢は下がっていった。

2030年、30〜40代はほとんどいなくなり、50代以上〜100才までと、20代以下だけが残った。僕は20才だった。50才以上は、意識のあるものは20代以下を支援することもあったが、ほとんどは自身の金を身内のための貯蓄にまわした。

そんな時に、「年金を支払わない代わりに、安楽死の年齢を決める」という制度が提示された。

最初、その制度をチラつかせた議員が、八方から糾弾を受け、辞職に追い込まれた。

しかし、だんだんと、年金を収めずとも、「活動的に生きてもらう」ということによる経済効果が無視し難いところまで発揮され、若年層の間で、短い人生を活動的に生きるという方向へブームがやってきていた。

ついに生まれた時から年金の納税義務が発生し、払えない分は、利子付きの借金として扱われることとなった。

未来が見えづらい今日では、安楽死の日が決まっていることによって、年金を支払わなくても済むという制度のディストピア感が、むしろ若年層に支持され、世代別投票で新制度が作られるように、議会は動いた。

詳細が議論され、安楽死希望を40才以下にする人間を中心に消費税・所得税を減免する制度として固まった。また、さらに若く、30才までと年齢を決めていれば、社会効果がより望める大きな挑戦をしてくれる、という意見により、30才までの人生であれば、年金は完全に免除された。東京は、この制度を利用するものに宇宙旅行を保証し、そのうち、契約を結んだ10代を中心に、都庁にあるロケットの模型と共に自撮りをし、配信することが一台ブームとなった。そこから、この新制度を利用する者は、人生を短く華やかに生きる世代として、「ロケッター」と呼ばれるようになった。

この契約を結ぶ権利は、13才未満の親・未成年後見人または13才以上の本人にある。当然、13才になってから、契約を結び直すこともできる。でも、今まで支払っていなかった年金を一気に払うことができない人の方が多いし、分割には利子がつく。その利子を払いきってから、年金がもらえるようになるまでの50代から70代までの間に、まともに働けなくなるものも多かった。

すると、やはり安楽死を選んで、掛け金を取り返し、市場に金をばらまいてもらう、というほうが、社会のためには何かと良いのだった。

テルのこと

言っておくが、僕は「暴動の日」の主犯ではない。

主犯はテルだった。

テルを見たのは、彼のサブチャンネルのサジェストが最初だった。

その頃、ロケット契約は絶対に違法であり、そんなものが実現することは100%あり得ないと、誰もが思っていた。

テルは人生のバランスが偏っていて、息をするように配信に人生の多くの時間を割ける男だった。

編集は緻密で、スッキリ見やすい動画が多かった。

主にゲームと生活についてのチャンネルで、中でも、ただテルが真っ白な部屋で物を捨てていく動画は、ファンからの圧倒的な支持を得ていた。

テルは、激しく聴衆を叱りつけるようなタイプではなく、CGのような滑らかな肌と艶やかな髪をゆらゆらさせながら、ボソボソと喋り、好かれることにてらいがなく、そして、いつの間にかファンが味方につき、ファンとアンチが勝手に戦い始めてしまうような、扇動してしまうような、恐ろしい魅力を持っていた。

僕はゲーム実況のチャンネルを持っていたが、あまり稼働させていなかったが、テルが僕に熱心にコメントをしてくれた。

「君の動画は、普通の感覚を持っていていいですよ!」

と、テルに言われた時は、バカにされているのかと思ったが、それでも、褒められ、認められたことが嬉しかった。

テルが、僕の小さなチャンネルにコメントを書き込むごとに、無数の聴衆がやってきて、わざわざ批判を書き込んで去っていって、ついに僕はチャンネルをやめたが、テルのサブチャンネルの管理を任されることとなった。

その頃、僕は行政書士の仕事にあまり行かなくなっていた。

行ったところで稼いだ金の多くが納税されてしまうのだ。

「それなら働いている場合じゃない」

テルが言うように、僕は思った。

テルは僕と配信なしにでも会うことを好み、自分の父親がロケッターの提唱者だということを告白した。そして、親が安楽死ではなく死んだということも言った。僕は重たいと思った。でも、テルの口調からはその重みは感じられなかった。事実だけが、ずっしりしていて、話し振りはどこまでもツルリとしていて綺麗だった。

年金崩壊から安楽死可決までの間、テルはロケッターになった時のために、着実にバジェットを計算していた。そして、今までの掛け金を取り返してから、彼が飛ぶまでに、デモのファッションを通販し、老人は死ねデモを盛り上がらせ、官邸前で音楽イベントを成功させた。彼のすごいのは、若年層だけではなく、死ねと言われている老人たちにすら支持されていて、DJの中には、70代の者もいたということだ。

テルは言った「みんなの考えが豹変する様子を見るのが楽しいんじゃないか」と。

このデモの終わりには、テルは必ずコンビニの窓を割った。

そして、窓を割るということがなんでもないことのように、学校で問題児が行う、一般的な、普通のことなんだということを、聴衆に刷り込んでいった。

暴動なんて、東京では起きないとずっと言われていた。それが、このカリスマの作ったイベントの、音楽によって、ファッションによって、絵画によって、ダンスによって、パフォーマンスによって、むしろ、一挙手一投足によって、様変わりしてしまった。

僕は、イベントでの物販の手配や、人間が集いすぎて圧死してしまわないように、割れたガラスで怪我をしないように、人数制限と予約管理をしていた。

そのうち、課金の多いファンの予約を優先するようになった。

僕が悩んでいた時に、資金繰りがうまく出来ず、節約がうまく出来て居ないと落ち込んで居た時に、テルは僕に言った。

「いや、みんな、もう、十分節約してる。みんなもう、十分にやっている」

この言葉に、僕は随分救われた。

そうだ、僕らは、もう十分、節約してるし、使いすぎているところは見直しているし、住宅費だってなるべく抑えて、先取り貯金でがんばって、よく、よく、やってきているじゃないか、と。

テルのお姉さんは、テルに「あんた、本当に借金返す気があるのなら、コンビニとかの日雇いバイトでもして、一ヶ月で返せる額でしょう」と言った。

テルは、「あの人、よく、コンビニバイトの人にも、僕にも、差別的なこと思いつけるよね」とせせら笑った。

コンビニで働いている期間、会社の仕事はどうするのか。全額を姉への借金返済に使ったとして、生活費はどうするのか、長期的に続く仕事をやめ、短期でコンビニのアルバイトをし、研修もそこそこに辞めることがばれないように面接を受けろと言うのか、あらゆる点で、テルは正論だった。

テルのファンが議員になり、若年層の納税義務を取り払い、代わりに彼らを安楽死に導いた。安楽死の前に、荒々しく金を使わせた。老人議員たちには、この若者たちの金払いの良さによって、景気が良くなっていく様を、数字で示した。

精子バンクグループや卵子バンクグループのようなものが作られ、テルは真っ先に僕の子供が作られるように、提供者として僕を選んだ。

「君は、ふつーの人代表だから」と、テルは僕の緊張を解きほぐした。

僕の子供が、これから、年金に縛られない世の中に生まれてくる予定だった。

テルは全部うまくやった。親として、自分の子供をロケッターとして自由に生きさせるところまで見せた。僕も当然そうすべきだと思った。

ロケッターは、待機児童にならない。国が保育施設に資金投入したからだ。

ロケッターは、好きな教育が受けられる。お稽古事も、スポーツクラブも、通いたい放題で、むしろ、学校に行くよりも、塾に行くことが奨励された。

その頃、テル自身が議員になっていた。

電車にも定員がある、と言い残して、テルは29才で議員を辞職し、安楽死の日までに、様々なベンチャーに少額投資をしはじめた。僕は28才で、いまだに彼の秘書みたいなことをしていた。自分のチャンネルは、もう動かさなくなっていた。

安楽死の期日は自分で決めることが出来るが、暗に他人によって決められてしまうことを、大きな権力によって決められてしまうことを、「トランスファ(転送)」なんていうようになっていた。権力は、宗教であることもあるし、親であることもあった。

テルは、チャンネルの視聴者たちに、自分をトランスファしてもらうことを選んだ。

そして、彼が主犯となる、あの日を迎えることになる。

センヨウさんのこと

あの日について語る前に、センヨウさんのことについても触れておこう。

センヨウさんは、一緒に秘書をしていたが、ちょっと意地悪だなと思うことが多かった。違法というほどひどいことをされるわけではないが、予約のミスをすると、「あなただけができていない、他の人はみんなできている」とネチネチと言い、そのくせ、自分はかなりサボる方だった。

配信中の自動文字起こしを、調整する仕事を、「日報」と言っていたが、日報を良くサボった。

二人で組むと、仕事のしわ寄せが自分にきてしまうのだ。

秘書グループの全員にセンヨウさんは嫌われていたので、僕としてはやりやすかったが、センヨウさんと僕の出社日には気が滅入った。

『ひどすぎるね。センヨウさんは病気なんじゃないかと話しています。ごめんね、はやく新しい人材を確保できるように考える』と、テルは言ってくれた。僕は、はやくセンヨウさんをなんとかしないと、みんなが不幸になってしまうと思った。人の不幸を祈るなんて、私は、結局じぶんにかえってきてしまうから、そんなことできないと思っていたけど、でも、みんなが狂って、混乱してしまう。やっぱりセンヨウさん、の命は、『トランスファ(転送)』するべきだった。トランスファなんて、殺人のことを、次の世界に飛ばす、といったような、ファンタジーでまとめなければ、僕らは心を保っていられなかった。

結局センヨウさんは仕事を辞め、そのあとのことは知らない。

暴動の日

暴動の日になった。

エモーショナルな配信が、そこら中で行われ、言葉が紡がれ、歌われた。

この日は、物語として、あらゆるチャンネルで消費された。

テルの信者が、僕に近づいてきて、自分が生まれてきて本当によかったと言った。

みんな、テルがデザインしたジャケットを着ていた。

ネイビーの細めのストライプのデザインがあしらわれた丸襟、キュートなパフスリーブ、金のボタン、白いスカートのようなズボン、こちらも縦にストライプ、そして、蛍光に光るビニールタイプのイエローベスト。

イエローベストは、フランスの暴動に触発されているものの、イエローであればなんでもよいとされていた。

けれど、やはり、テルのデザインした、ゆったりとしたユニセックスなベストが一番売れた。

サコッシュやビニールでスケルトンタイプのイエローのカバンも流行っていた。

暴動の中心にテルが立ち、号外を配った。

視聴者たちの中で、長い議論があったあげく、トランスファは取り下げられ、テルは長く生かされることになっていた。

テル(たち)が半年ほどかけて割り続けた街中の窓ガラスで足を怪我しないように、ゴツめの黒い安全靴が流行っていた。

最初はコンビニのガラスが割られても、すぐに復旧していたが、そのうち、割られたコンビニの店員たちが味方し、コンビニの中のありとあらゆるガラスが割られ始めた。

そして、街へとガラス割りが広がり、占拠したエリアの入り口で、テルはさながら検問のようなことをやり始めた。

テルが官邸前で火を放ち、周りで乱闘が起き、何人かの犠牲が出ている間、マイクを手にとって言った。

「俺たちは怒っている。俺たちは増税に怒ってる。俺たちが暴動を起こさないと思ったか?『みんながやっている』を作れば、俺たちは暴動を起こすぞ。簡単なことなんだ。俺たちはそう言う風に生まれついているからな。むしろわかりやすいスイッチで助かったよ。なあ、わかってるのか、返せよ、満額で返せよ、俺たちを返せ、貸してるもの返せって言ってるだけだよ、自由を返せ」

聴衆が完成をあげ、乱闘が続き、泣くものが続出し、突然、背後から小柄な若者がダンプのような勢いでやってきて、テルを刺した。

テルは抵抗した。

しかし、そいつはなんども何度もテルを刺し、刺しながら、「ありがとう!ありがとう!」と叫んでいた。

多くの大人に若者は取り押さえられた。

暴動の日は、テルがかつて安楽死を決めていた日だった。

テルの死を、僕は前後不覚のまま、泣き叫びながら、世界に配信した。

テルに、おい、おい、と声をかけていた。

みんなが灯油タンクを手にしていた。

「このままやろう」と、テルは言った。

自分が決めたことを覆さない、ということに、テルは誇りをもっていた。

テルに、代わりに僕が全部やれ、と言われた。

僕にはできないと思った。

テルは、小声で、痛いとか、グロいとか呻きながら、最後に、「君はすごいよ、ちゃんと会計やってさ、子供に未来を与えてさ、普通を生きてるよ、普通はすごいことだよ」とか、そういったことを、「痛い」と血混じりに呟いて、「俺たちの子供達をさ、ロケッターにしてくれてさ、ありがとうな、ほんと、それさ、普通だよ、すごいよ、繋がってるよ、ありがとう」と弱々しく呻いて、事切れた。

勘弁して欲しかった。

テルが言うことに逆らうことは、僕には絶対に出来ないのに。

僕は、テルの握っていたマイクを奪って、跪(ひざまず)いたまま、「死ね!みんな死ね!」と叫んだ。

思ったよりも落ち着いたトーンだった。

テルの頭は重く、腕は軽く、何もかもが信じられなかった。

手が痺れていた。

「返せ!俺たちの人生を返せ!年金返せ!卑怯な奴らめ、返せ!」と、ゆっくり、ゆっくり叫んだ。

どこか、違う人間が言っている言葉を聞くような気持ちだった。

全て、テルが言っていた言葉だった。

僕は凡庸だった。

みながエモーショナルな表情を浮かべ、高揚し、僕を肯定した。

「産まない、産まないことで守ってやる、産む、産んでも借金にがんじがらめにならないように、命の長さを決めて、税金から逃れさせてやる」ぐるぐると、どうどう巡りのことにとらわれて、僕は動けなかった。

僕の子供は、もう保育器の中にいて、ロケッターの手続きを、すでに行なっていた。

本当に、僕は、何かを動かすような力を持っていなかった。

みんながテルを肯定する。

足元のガラスの破片が光って、跪く僕の顔を映した。

僕はテルの顔になっていた。

ロケットへ

そして今の時間に戻る。

僕は、もう動画を撮らなくても良いのに、目の前に広がる光景の字幕やカット割りのことを考えていた。

ロケットの中に、薄い霧が出始めていた。

僕の腕に、管が入り、血管は、ぽつぽつと、薬を受け入れていた。

手厚い保証が約束され、教育された子供達は、実に強くたくましく、様々な事業で成功を収めた。

僕は資金繰りに奔走することもなくなり、財団を作り、さらに手厚い福祉を未来の子供達に約束した。

命が制限されているから、僕は馬力を出せたのだと思っていた。

しかし、いまわの淵に、こう思った。

「僕はまだ本気になれていなかったんじゃないか?」と。

走馬灯のこと

僕は急に後悔し始めた。

息子を保育器の外から見たことを思い出した。

息子は大きく息をしていた。

彼の肌はざらついていた。

つぶれそうな指だった。

風船のようだ。

そして、はちきれそうだった。はちきれるのは僕のほうだった。

薬が効いてきて、30年が終わろうとしていた。

安楽死を「選んだ」日から、30年というように、日付を変えた方がいいんじゃないだろうか、制度がおかしかったんじゃないかと思い始めた

目の前の金ばかり追いかけちゃダメだよとしたり顔で言ってくる投資家の友人の顔が浮かんだ。

彼らはうるさかった。

幸福なロケッターたちが、未来のために、十分に保障を受け、教育を受けさせてもらえることを思い、僕も幸せな気持ちになった

しかし、僕の中で、僕が反論した

「なぜ、ロケッターが優先されるんだ?」と。

「全ての子供達に教育を保証しろよ」と、僕が怒った。

一体誰に?

犠牲になるのは、みんな子供達だった。

そんな子供達に、お前たちは30歳で死んでこい、と、僕は言ったのだ。

僕が、テルに反抗することなんて、恐ろしくて出来なかったから。

テルがこの世にいなくなっていても、僕は僕に反抗することなんて、出来なかった。

怖かったから、全部を制度のせいにして、僕の言うことを聞く、良い子の、ロケッターに手厚い福祉と教育を保証し、言うことを聞かない、悪い子たちに、重税を課し、まるでそれが真の平等であるようにした。

怖くて逃げ回って、自分には権力なんてないと信じきっていた。

圧政だったり、ひどい制度というのは、ひどい思考の末に行われるものだと思っていた。

テルに「普通だ」と言い聞かせられてきた臆病な「僕」みたいな人間が、圧政を行ってしまった。

止めなければ、と、取り返しのつかないことを巻き戻したい気持ちが襲ってきて、耐えられず、僕は煙の中でもがいた。

僕は気が狂ったのかもしれない。

「返せ!」と叫んだ自分の声がロケットの中で揺れ、窓を開けようとした。

30年の終わり

開けようとした窓が、外側から空いた。

センヨウさんが、僕のロケットを開けたのだった。

最初、光と空気に満たされ、眩しくて目が潰れるようだった。

目を反射的に閉じている間、センヨウさんは僕に話しかけた。

妄想か幻覚か、センヨウさんが本当に存在しているのか、僕にはもうわからなかった。

くたびれた声だった。

彼は宇宙研究を始めていた。

新しい街を作るから、手伝って欲しいと言われた。

宇宙にいけば、きっと開けていて、自然で、定員なんて無いと思いたかったけど、宇宙には絶対に定員がある、と、僕は僕の中で思った。

僕は、「新しさ」に、なんの希望も持てないでいた。

閉じ込められていた瞬間まで、僕は制度を変えなければともがいたのに、いざ蓋を開けられるとすくんだ。

センヨウさんが蓋を開け、四角く切り取られた世界は、あまりに、あまりに眩しくて、淀みきっていたロケットの中の空気を2秒で入れ替え、僕の中に、情けなくも、希望のようなものが湧いてきてしまった。

僕は泣いた。

自分の空気の入れ替えのために、かりそめの新しさのために、僕はあらゆる人を騙したような気分になった。

借金のない、稼いだお金を全部自分で使うことが出来るためなら、僕はなんだってしたかったはずだった。

肺が圧迫された。

僕の胸の上に、息子が入ったロケットが乗っていた。

番号が、息子のものであることが、手で触って確かめてわかった。

驚き、持ち上げようとしたら、手に力が入らず、ロケットに胸毛がへばりつき、またストンと胸の上に戻り、小さなロケットのドアが開いた。

息子は中にはいなかった。

「保育室です」

と、センヨウさんが告げた。

無数の後悔に襲われ、僕は「情けないけど、息子に恨まれるのが怖いんだ」と返した。

今すぐ死なせてほしかった。

「ど、どうやって入ったんですか」と、センヨウさんに聞くと、

「正面から、開けたいので開けさせてくださいって言ったら開けさせてくれました。」とそっけなく返される。「みんな、外部からのお願いには、もう反抗する気力が無いんでしょう」

センヨウさんは続けた。

「まだ、彼は、あなたの息子さんは、社会に出てませんからね。まだなにが好きなのかも、なにが苦手なのかも、どんな風にものごと受け止めるかも、未知数ですよ。そんな赤ん坊は、まだ人間じゃないですよ。息はしてますけど、何を思っているかはわからないです。」と言って、急に涙を流した。

「私は、社会の仕組みは理解しているだけなんです、子供が生まれてこなければ、子供は辛い思いをしなくて、借金をしなくて良いんです。でも、私は理解しているだけで、一つ一つの生活と世界が繋がっているってことを、本当に理解してはないんです。子供は、まだ人間じゃなくて、何を思うか、何を背負わされると嫌で、何を安心だと感じるか、腹がたつのか、どのように自由を捉えるか、まだ、決まってないんです。せいぜい快か不快かくらいしかないんです。まだ、あなたは憎まれてないんです。」

逆光で、センヨウさんの顔が、ぐにゃぐにゃになって、テルの顔に見え、僕は目を見開いた。

「これから憎まれるんです。」

僕のひたいの上に、センヨウさんの、テルの、涙と、鼻水が、ぼたぼた落ちた。

「あと、恨まれたくないなら洗脳したらいいんじゃないですか」と、センヨウさんの真面目な顔に戻って言った。

僕は泣いた。

どこに、正解があったんだろうか。

どこに、ずるく無い明日が、子供に保証できる未来があったんだろうか。

僕はそれを、見逃して、気づいたら手放してしまっていたのだろうか。

自分が決めたことを覆さない、ということに、テルは誇りをもっていた。

僕はテルと全然違った。

僕は、自分が決めたことを覆す道を選んだ。

センヨウさんは、フラフラでつまようじみたいな僕の腕を抜けるかと思うほど引っ張ったので、僕はロケットから出る。

新しい光ばかりではないはずの新しい街に引っ越すために、文句を言われながら、文句を言い、自分の権利を主張し、僕が奪ってきた命の制度を食い止めるために、今度こそ、僕自身を裏切らないために。

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20190508

Playing “white feather arrows”was finished.

Thank you all. I always feel I want to touch hearts whose I don’t know.

So if I get the winner of it, Many people come my Exhibition, I think this is my next assignment is to expand my audience base for I occasionally think it.

And I pleased to I performed well, this is really lucky, though I have to learn about the narration skill.

82kimjiwon

「82年生まれ、キム・ジヨン」

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

冒頭から15分で、わっと泣き出してしまいそうになった。

幼少〜小学生

小さいころから、自分でも気づかない間に、女性は当たり前に、小さくいろいろなものを損なわれている。

それが当たり前で、みんなそうで、あの頃はみんなそうだったから。

周りの男性は、ひどい時もあるが、基本は寄り添ってくれて、間違えて怒った先生も、「気づかずに怒ってすまない、なにかしてほしいことはあるか」と優しく言ってくれて、心がほどけるのだが、追い打ちをかけるように、「でもあいつはお前が好きなんだよ」と、こちらでは理解できないことを言う。

なぜ、精神的に未熟な男の子のために、女の子は損なわれなければいけないのかを、ずっと諦めていたのかもしれないけど、いくつになっても、未熟さによって、誰かが損なわれるべきではないと、本当に思った。何歳になっても、問題は複雑さを極めていくだけで、ジェンダーイコールについてを、みんな、小説の中ではじっと聞けるのかもしれない。少なくとも、この本が「売れてる」ということが、これから、大きな力になっていきそうに思う。 

就活

出てくる誰もが優しくて報われない

女性やなんらかの弱い立場にたつ人であれば、必ず感じたことのある矛盾と悔しさのエピソードに溢れているのに、直接的にえぐるというよりは、やわらかい眼差しで整理していく。
出てくる(男性含め)登場人物は、主人公に意地悪なわけじゃない。嫌な人はいない。だけど、ガラスの天井と、出口のない迷路にぽつんと取り残される。ジェンダーイコールの問題は、マジョリティv.s.マイノリティではない。敵は、どうしようもない「慣習」であり、慣習は私たちのアイデンティティに深く結びついている為、本当に事態は複雑なのだと思う。

ラスト

後味を悪くするのは、本当に「正しい」と思った。

全体的に

読んでいる間中、ほんとうに胸がつまる思いで、そうだそうだそうなんだよ、と思いつつ、小説の語りの「カタルシス」に救われる思いもあった。

あと、私の夫は「家事を手伝う」とは絶対に言わない。こういう、「これを言うと他人が損なわれてしまう言葉」も学べるので便利。彼も、「手伝う」と言ってはいけない理由を、私に出会う前に学んだのだと思うので、かなり意識的に、言わないし、言っている人をたしなめるが、知らなければ、または、そのようなものを深く理解していなければ、言ってしまうと思う。

私自身、知らぬまま、誰かを損なうことがあると思う。私はたまたま女性に生まれただけで、きっと、もっと違う人たちを傷つけてしまっているのではないか、私は、本当に初心にかえらなければならないと思う。

(電車の中で、「そんな腹になるまで地下鉄に乗って働くような人が、何で子どもなんか産むのさ」と言った女の子は、形を変えた私だと思う、そういうことを本当に思っているわけじゃないんだけど、そういう権化になってしまう恐れを、私は抱えている、そうさせたのは、様々な仕組みだということは理解しているけど、まだ、逃げきれていない。)

diary_translation

最近CV英訳していて思うのは、日本語の展覧会のタイトルは大変言葉遊び的であるということです。

日本語の中に、作品を表すための言葉以上の言葉を、詩性を詰め込みたがるのかもしれません。日本語を使うのであれば、作品以上の意味合いで遊んでしまうという、言葉の特性を知るといいのかもしれないと思いました。

また、作品はシンプルに表したものの方がわかりやすいときもありますし、冗長であっても、まさにこの作品群を捉えるにふさわしい、というしっくりくる感じがあると、展覧会名とともに、作品群もひとつひとつが輝き出すような感じがします。

まとめ:日本語の展覧会のタイトルは言葉遊び的で、他の意味も入り込む。シンプルにしつつ、しっくりくることも大事。

心を込めて。みなみでした!

201902curlyhair

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2019. Feb. 14 my hair style.#curlyhair #curly #curlygirl #curlyhairstyles #curlynaturalhair #curlygirls #deepcurly #curlynatural #CurlyHair #naturallycurly #curlygirlmethod #curlygirlcommunity #curlylife #curlybeauties

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2019. Feb. 10 my hair style.#curlyhair #curly #curlygirl #curlyhairstyles #curlynaturalhair #curlygirls #deepcurly #curlynatural #CurlyHair #naturallycurly #curlygirlmethod #curlygirlcommunity #curlylife #curlybeauties

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2019. Feb. 4 my hair style.#curlyhair #curly #curlygirl #curlyhairstyles #curlynaturalhair #curlygirls #deepcurly #curlynatural #CurlyHair #naturallycurly #curlygirlmethod #curlygirlcommunity #curlylife #curlybeauties

こんな感じかな。

スパイラルカールを意識できるようになってきた!ワックスは使ってないので、ワックスありのカールスタイルにチャレンジしてみたいな。

まとめ:彩り豊かにしてみると髪はより楽しい!

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