ドライでソリッド

これはドライな言い方かもしれないけど。

と付け足して、半年ほど組み上げに関わったチケットアプリのデザインメンバーから私を外すことにタクミはした。

「ドライ…」

タクミのいうドライさの手触りに違和感を覚えながら、話を聞いていた。

構成は良い。だけど、グラフィカルな部分で合わない。あいつならもっとうまくやれるし、指示したことがない。言葉で伝えないといけないなら、合わないということ。合わない人とバンドは組まない。

「私はバンドメンバーじゃないんだけどな」と内心は自由に思いながらも、それを発言することでいい方向は行かないだろうなと直感した。

タクミのいうドライさが、単純にステージを良いものにすることに繋がっているのか、または合わないやつを外していくということ自体がある種のいけにえのように何かを喜ばせているのかわからなかった。

バンドメンバーに合わないやつは必要ないという理論は、まるでバンドがバンドだけで成り立っているように私には聞こえて、バンドを舐めている発言にも聞こえた。やめていったサポートメンバーや合わなかった裏方がいたから彼が思う世界が実現しなかったと注釈したがっているようだ。自分に合うやつを残し、合わないやつとの会話をやめると、行き着く先は語彙不足だ。こういう理論を聞きに来たわけではなく具体的に進めていくやり方をしにスタジオに入った私はちょっと面食らっていた。音楽というのは文化で、言葉で伝えられるものではなく、今までも伝えたことはなく、言葉で進めていけないと。

彼が付け加えた言葉は、線引きかつあえて私のプライドのようなものを切り捨てることが全体のためになるというような自分を納得させるやり方のひとつ、癖のようなものなのかなと思った。

しかし、ある日、今までセンス一本でやって来たところに、言葉で組み上げていく経験を持たず、急に立ち行かなくなることもあるだろう。細かな粒度で会話を重ね、産み出していくものを経験していないとき、細い線に立っていた足元が既に線から遠く離れていることに気づくだろう。言葉というのは足だ。固い地面を作るのは、いつも伝わらないことを前提としながらも、言葉を重ねる力だ。

ドライさに言及させた彼の口びるから、少しずつずれていく未來と選別をすることによる痛みを必要な犠牲だとする酔いしれを感じ、あらゆる言葉の積み重ねがチームとステージを作り、些末なものとの結び付きが今を組み上げていることを間近でみているようだった。

何がかれの口びるをこんなにも渇かせ、固くさせたのだろう。その言葉はステージがバンドだけのものだというように、関わってきた人たちへの尊敬を捨て去る危うさがある。

それは信念と対立を起こしているように感じた。彼のほうが私の何百倍も音楽を愛しているだろうに。

では、グラフィカルな部分は外注しませんか、と聴いて話がまとまった。

渇いていると肌は傷つきやすい。湿度をあげるとイライラが鎮まる。

私を本当に外したいなら、私を目の前にして言葉で話せないと言うのではなく、アプリチームの人に予め私がいない場所で伝えるだろう。不器用さ、だな。ただ自分が違うジャンルの人間だということをあげつらわれるだけの会だったなとひとりごちた。

だけど、ソリッドな土はまず潤すところから。ソリッドには固いとかかっこいいとかいう以外にも「私は大丈夫」だという意味がある。

タクミは自称ドライかも知れないけど、私は自称「アイアムソリッド」だ。積み重ねにいつも絶望し、観察し、粘ることができる。

「『私が知る孤独』のための交換日記」

2020. ARR. 14 更新 交換日記 山羊座のパンのために Exchange diary for Pan, Capricornus
刺繍図案

孤独交換・貨幣交換はこちら

goldenmilk.theshop.jp

※画像刺繍はイメージです。

パフォーマンス「『私が知る孤独』のための交換日記」

こんにちは。アーティストの金藤みなみです。
パフォーマンスのお知らせです。
2343字の小説「私が知る孤独」(日本語)を1文字単位であなたの日記と交換し、送付します。

◆交換方法

1.貨幣交換
本ページ( https://goldenmilk.theshop.jp/items/27825547 )より500円の支払いにて全文字数をまとめて購入いただけます。貨幣交換の場合は全文字数の購入のみの対応となります。

◆「貨幣交換」販売開始時間
2020年5月1日 金曜日 午後1時(13時)から5月6日までを予定。また、予告なくクローズとなる可能性があります。

2. 孤独交換

お客様の日記1文字につき1文字交換いたします。

コンタクトフォーム( https://thebase.in/inquiry/goldenmilk-theshop-jp/ )

お名前、メールアドレス、電話番号(空欄では届かないので00000000000と記入ください)を記入いただき、
件名を「孤独交換」とし、お問い合わせ内容に交換希望の文字数分の日記を記入してください。お客様ご自身で日記をウェブ等で公開されてもかまいません。(日記のURLをご記入ください。)

※孤独交換はコンタクトフォームより日記をお送りください。
※孤独交換は4月から受付します。
※2020年5月6日クローズ予定です。
※437字以上~2343字以下とします。
※日記は、欲しい文字数分がコンタクトフォームの「お問い合わせ内容」に書かれていることが必要です。また、2343字を越えた場合でも、こちらからは2343字分(日記すべて)のみ送付することとします。
※交換された日記は展示等にて公開する可能性があります。

上記のいずれかにより交換していただけます。

◆受け取り方法

メール本文に記載し、返信いたします。

※We may do the performance in English, while this is in Japanese.

※手数料については、BASE公式ウェブサイトのFAQに一任しております。
◾️購入者側に手数料は発生しますか?
https://help.thebase.in/hc/ja/articles/206418841-%E8%B3%BC%E5%85%A5%E8%80%85%E5%81%B4%E3%81%AB%E6%89%8B%E6%95%B0%E6%96%99%E3%81%AF%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B-

※申し込み方法、期間などは予告なく変更する可能性があります。

※関連商品(アクセサリー、関連zine)は順次発売予定です。

孤独の交換ができます

暴動の日

星空文庫にも公開していて、チャプターで分かれているのでわかりやすいです。

金藤みなみ「暴動の日」

2040年

生まれた子供をロケットに入れることは、まるで自分が地面から5センチ浮いているような、不安定な気分にさせられた。

ロケット。これに入れれば、子供たちは年金を払わなくていいのだ。生まれたときにこうしてくれていたら、僕だって幸せだったのに。

こういう、親がこういう習い事を教えてくれていたらとか、もっと勉強しやすい環境だったらとか、スポーツに資金をかけることに理解があったらとか、いまだに思うけど、結局、今は、『年金に縛られたこの世界に子供を生んでいいのか』ということで、僕は頭をかきむしることになった。

僕としては、生きられる年齢を縛られた方がよっぽど良いと思って、それを選んだ。

しかし、僕は選んでいたようで、結局のところ、テルに選ばされていたのだろうか。

むしろ、親にその制度を選んでもらえていたら、今まで払ってきて、しかも返ってこない掛け金を、全部取り返せていたという、どうしようもない憎悪を、どうすることもできなかった。

だから、年金から逃げ続ける、30年に縛られた命を、僕は僕たちの子供に保証した.

だけど、その子は、いつか親としての僕を憎むのだろうか。

本当にこれでいいのか、決めていたのに、これから自分自身が死ににいくという時に、今更迷った。

僕は、あと24時間後、ロケットに乗る、つまり、死ぬ。

それまでに、僕たちの狂った日、いや、狂っていなくて正しい日、つまり、暴動の日についてを配信しておきたい。

そのためには、ロケッターについて、暴動の日の主犯についてを話しておかねばならない。

ロケッター(ロケット世代)のこと

年金制度が死んでから、新しく始まったのが、ロケット契約に代表される制度だった。

年金制度自体はなくならず、だんだんと、学生にも、10代にも、納税義務が課せられるようになった。

安楽死が合法化され、腹の底から死にたがる子供が増え、ゆとり世代と言われた30代が未来に失望してこぞって死んだ。

また、安楽死はだいたい70才からというのが(年金が支払われるのがかつては70才だったからか)定説となり、安楽死を自身で保険証に書き込んでおく欄ができた(もちろん、自由意志に任されているが)。だいたいは70才と書き込むことが多かったが、だんだんと、その年齢は下がっていった。

2030年、30〜40代はほとんどいなくなり、50代以上〜100才までと、20代以下だけが残った。僕は20才だった。50才以上は、意識のあるものは20代以下を支援することもあったが、ほとんどは自身の金を身内のための貯蓄にまわした。

そんな時に、「年金を支払わない代わりに、安楽死の年齢を決める」という制度が提示された。

最初、その制度をチラつかせた議員が、八方から糾弾を受け、辞職に追い込まれた。

しかし、だんだんと、年金を収めずとも、「活動的に生きてもらう」ということによる経済効果が無視し難いところまで発揮され、若年層の間で、短い人生を活動的に生きるという方向へブームがやってきていた。

ついに生まれた時から年金の納税義務が発生し、払えない分は、利子付きの借金として扱われることとなった。

未来が見えづらい今日では、安楽死の日が決まっていることによって、年金を支払わなくても済むという制度のディストピア感が、むしろ若年層に支持され、世代別投票で新制度が作られるように、議会は動いた。

詳細が議論され、安楽死希望を40才以下にする人間を中心に消費税・所得税を減免する制度として固まった。また、さらに若く、30才までと年齢を決めていれば、社会効果がより望める大きな挑戦をしてくれる、という意見により、30才までの人生であれば、年金は完全に免除された。東京は、この制度を利用するものに宇宙旅行を保証し、そのうち、契約を結んだ10代を中心に、都庁にあるロケットの模型と共に自撮りをし、配信することが一台ブームとなった。そこから、この新制度を利用する者は、人生を短く華やかに生きる世代として、「ロケッター」と呼ばれるようになった。

この契約を結ぶ権利は、13才未満の親・未成年後見人または13才以上の本人にある。当然、13才になってから、契約を結び直すこともできる。でも、今まで支払っていなかった年金を一気に払うことができない人の方が多いし、分割には利子がつく。その利子を払いきってから、年金がもらえるようになるまでの50代から70代までの間に、まともに働けなくなるものも多かった。

すると、やはり安楽死を選んで、掛け金を取り返し、市場に金をばらまいてもらう、というほうが、社会のためには何かと良いのだった。

テルのこと

言っておくが、僕は「暴動の日」の主犯ではない。

主犯はテルだった。

テルを見たのは、彼のサブチャンネルのサジェストが最初だった。

その頃、ロケット契約は絶対に違法であり、そんなものが実現することは100%あり得ないと、誰もが思っていた。

テルは人生のバランスが偏っていて、息をするように配信に人生の多くの時間を割ける男だった。

編集は緻密で、スッキリ見やすい動画が多かった。

主にゲームと生活についてのチャンネルで、中でも、ただテルが真っ白な部屋で物を捨てていく動画は、ファンからの圧倒的な支持を得ていた。

テルは、激しく聴衆を叱りつけるようなタイプではなく、CGのような滑らかな肌と艶やかな髪をゆらゆらさせながら、ボソボソと喋り、好かれることにてらいがなく、そして、いつの間にかファンが味方につき、ファンとアンチが勝手に戦い始めてしまうような、扇動してしまうような、恐ろしい魅力を持っていた。

僕はゲーム実況のチャンネルを持っていたが、あまり稼働させていなかったが、テルが僕に熱心にコメントをしてくれた。

「君の動画は、普通の感覚を持っていていいですよ!」

と、テルに言われた時は、バカにされているのかと思ったが、それでも、褒められ、認められたことが嬉しかった。

テルが、僕の小さなチャンネルにコメントを書き込むごとに、無数の聴衆がやってきて、わざわざ批判を書き込んで去っていって、ついに僕はチャンネルをやめたが、テルのサブチャンネルの管理を任されることとなった。

その頃、僕は行政書士の仕事にあまり行かなくなっていた。

行ったところで稼いだ金の多くが納税されてしまうのだ。

「それなら働いている場合じゃない」

テルが言うように、僕は思った。

テルは僕と配信なしにでも会うことを好み、自分の父親がロケッターの提唱者だということを告白した。そして、親が安楽死ではなく死んだということも言った。僕は重たいと思った。でも、テルの口調からはその重みは感じられなかった。事実だけが、ずっしりしていて、話し振りはどこまでもツルリとしていて綺麗だった。

年金崩壊から安楽死可決までの間、テルはロケッターになった時のために、着実にバジェットを計算していた。そして、今までの掛け金を取り返してから、彼が飛ぶまでに、デモのファッションを通販し、老人は死ねデモを盛り上がらせ、官邸前で音楽イベントを成功させた。彼のすごいのは、若年層だけではなく、死ねと言われている老人たちにすら支持されていて、DJの中には、70代の者もいたということだ。

テルは言った「みんなの考えが豹変する様子を見るのが楽しいんじゃないか」と。

このデモの終わりには、テルは必ずコンビニの窓を割った。

そして、窓を割るということがなんでもないことのように、学校で問題児が行う、一般的な、普通のことなんだということを、聴衆に刷り込んでいった。

暴動なんて、東京では起きないとずっと言われていた。それが、このカリスマの作ったイベントの、音楽によって、ファッションによって、絵画によって、ダンスによって、パフォーマンスによって、むしろ、一挙手一投足によって、様変わりしてしまった。

僕は、イベントでの物販の手配や、人間が集いすぎて圧死してしまわないように、割れたガラスで怪我をしないように、人数制限と予約管理をしていた。

そのうち、課金の多いファンの予約を優先するようになった。

僕が悩んでいた時に、資金繰りがうまく出来ず、節約がうまく出来て居ないと落ち込んで居た時に、テルは僕に言った。

「いや、みんな、もう、十分節約してる。みんなもう、十分にやっている」

この言葉に、僕は随分救われた。

そうだ、僕らは、もう十分、節約してるし、使いすぎているところは見直しているし、住宅費だってなるべく抑えて、先取り貯金でがんばって、よく、よく、やってきているじゃないか、と。

テルのお姉さんは、テルに「あんた、本当に借金返す気があるのなら、コンビニとかの日雇いバイトでもして、一ヶ月で返せる額でしょう」と言った。

テルは、「あの人、よく、コンビニバイトの人にも、僕にも、差別的なこと思いつけるよね」とせせら笑った。

コンビニで働いている期間、会社の仕事はどうするのか。全額を姉への借金返済に使ったとして、生活費はどうするのか、長期的に続く仕事をやめ、短期でコンビニのアルバイトをし、研修もそこそこに辞めることがばれないように面接を受けろと言うのか、あらゆる点で、テルは正論だった。

テルのファンが議員になり、若年層の納税義務を取り払い、代わりに彼らを安楽死に導いた。安楽死の前に、荒々しく金を使わせた。老人議員たちには、この若者たちの金払いの良さによって、景気が良くなっていく様を、数字で示した。

精子バンクグループや卵子バンクグループのようなものが作られ、テルは真っ先に僕の子供が作られるように、提供者として僕を選んだ。

「君は、ふつーの人代表だから」と、テルは僕の緊張を解きほぐした。

僕の子供が、これから、年金に縛られない世の中に生まれてくる予定だった。

テルは全部うまくやった。親として、自分の子供をロケッターとして自由に生きさせるところまで見せた。僕も当然そうすべきだと思った。

ロケッターは、待機児童にならない。国が保育施設に資金投入したからだ。

ロケッターは、好きな教育が受けられる。お稽古事も、スポーツクラブも、通いたい放題で、むしろ、学校に行くよりも、塾に行くことが奨励された。

その頃、テル自身が議員になっていた。

電車にも定員がある、と言い残して、テルは29才で議員を辞職し、安楽死の日までに、様々なベンチャーに少額投資をしはじめた。僕は28才で、いまだに彼の秘書みたいなことをしていた。自分のチャンネルは、もう動かさなくなっていた。

安楽死の期日は自分で決めることが出来るが、暗に他人によって決められてしまうことを、大きな権力によって決められてしまうことを、「トランスファ(転送)」なんていうようになっていた。権力は、宗教であることもあるし、親であることもあった。

テルは、チャンネルの視聴者たちに、自分をトランスファしてもらうことを選んだ。

そして、彼が主犯となる、あの日を迎えることになる。

センヨウさんのこと

あの日について語る前に、センヨウさんのことについても触れておこう。

センヨウさんは、一緒に秘書をしていたが、ちょっと意地悪だなと思うことが多かった。違法というほどひどいことをされるわけではないが、予約のミスをすると、「あなただけができていない、他の人はみんなできている」とネチネチと言い、そのくせ、自分はかなりサボる方だった。

配信中の自動文字起こしを、調整する仕事を、「日報」と言っていたが、日報を良くサボった。

二人で組むと、仕事のしわ寄せが自分にきてしまうのだ。

秘書グループの全員にセンヨウさんは嫌われていたので、僕としてはやりやすかったが、センヨウさんと僕の出社日には気が滅入った。

『ひどすぎるね。センヨウさんは病気なんじゃないかと話しています。ごめんね、はやく新しい人材を確保できるように考える』と、テルは言ってくれた。僕は、はやくセンヨウさんをなんとかしないと、みんなが不幸になってしまうと思った。人の不幸を祈るなんて、私は、結局じぶんにかえってきてしまうから、そんなことできないと思っていたけど、でも、みんなが狂って、混乱してしまう。やっぱりセンヨウさん、の命は、『トランスファ(転送)』するべきだった。トランスファなんて、殺人のことを、次の世界に飛ばす、といったような、ファンタジーでまとめなければ、僕らは心を保っていられなかった。

結局センヨウさんは仕事を辞め、そのあとのことは知らない。

暴動の日

暴動の日になった。

エモーショナルな配信が、そこら中で行われ、言葉が紡がれ、歌われた。

この日は、物語として、あらゆるチャンネルで消費された。

テルの信者が、僕に近づいてきて、自分が生まれてきて本当によかったと言った。

みんな、テルがデザインしたジャケットを着ていた。

ネイビーの細めのストライプのデザインがあしらわれた丸襟、キュートなパフスリーブ、金のボタン、白いスカートのようなズボン、こちらも縦にストライプ、そして、蛍光に光るビニールタイプのイエローベスト。

イエローベストは、フランスの暴動に触発されているものの、イエローであればなんでもよいとされていた。

けれど、やはり、テルのデザインした、ゆったりとしたユニセックスなベストが一番売れた。

サコッシュやビニールでスケルトンタイプのイエローのカバンも流行っていた。

暴動の中心にテルが立ち、号外を配った。

視聴者たちの中で、長い議論があったあげく、トランスファは取り下げられ、テルは長く生かされることになっていた。

テル(たち)が半年ほどかけて割り続けた街中の窓ガラスで足を怪我しないように、ゴツめの黒い安全靴が流行っていた。

最初はコンビニのガラスが割られても、すぐに復旧していたが、そのうち、割られたコンビニの店員たちが味方し、コンビニの中のありとあらゆるガラスが割られ始めた。

そして、街へとガラス割りが広がり、占拠したエリアの入り口で、テルはさながら検問のようなことをやり始めた。

テルが官邸前で火を放ち、周りで乱闘が起き、何人かの犠牲が出ている間、マイクを手にとって言った。

「俺たちは怒っている。俺たちは増税に怒ってる。俺たちが暴動を起こさないと思ったか?『みんながやっている』を作れば、俺たちは暴動を起こすぞ。簡単なことなんだ。俺たちはそう言う風に生まれついているからな。むしろわかりやすいスイッチで助かったよ。なあ、わかってるのか、返せよ、満額で返せよ、俺たちを返せ、貸してるもの返せって言ってるだけだよ、自由を返せ」

聴衆が完成をあげ、乱闘が続き、泣くものが続出し、突然、背後から小柄な若者がダンプのような勢いでやってきて、テルを刺した。

テルは抵抗した。

しかし、そいつはなんども何度もテルを刺し、刺しながら、「ありがとう!ありがとう!」と叫んでいた。

多くの大人に若者は取り押さえられた。

暴動の日は、テルがかつて安楽死を決めていた日だった。

テルの死を、僕は前後不覚のまま、泣き叫びながら、世界に配信した。

テルに、おい、おい、と声をかけていた。

みんなが灯油タンクを手にしていた。

「このままやろう」と、テルは言った。

自分が決めたことを覆さない、ということに、テルは誇りをもっていた。

テルに、代わりに僕が全部やれ、と言われた。

僕にはできないと思った。

テルは、小声で、痛いとか、グロいとか呻きながら、最後に、「君はすごいよ、ちゃんと会計やってさ、子供に未来を与えてさ、普通を生きてるよ、普通はすごいことだよ」とか、そういったことを、「痛い」と血混じりに呟いて、「俺たちの子供達をさ、ロケッターにしてくれてさ、ありがとうな、ほんと、それさ、普通だよ、すごいよ、繋がってるよ、ありがとう」と弱々しく呻いて、事切れた。

勘弁して欲しかった。

テルが言うことに逆らうことは、僕には絶対に出来ないのに。

僕は、テルの握っていたマイクを奪って、跪(ひざまず)いたまま、「死ね!みんな死ね!」と叫んだ。

思ったよりも落ち着いたトーンだった。

テルの頭は重く、腕は軽く、何もかもが信じられなかった。

手が痺れていた。

「返せ!俺たちの人生を返せ!年金返せ!卑怯な奴らめ、返せ!」と、ゆっくり、ゆっくり叫んだ。

どこか、違う人間が言っている言葉を聞くような気持ちだった。

全て、テルが言っていた言葉だった。

僕は凡庸だった。

みながエモーショナルな表情を浮かべ、高揚し、僕を肯定した。

「産まない、産まないことで守ってやる、産む、産んでも借金にがんじがらめにならないように、命の長さを決めて、税金から逃れさせてやる」ぐるぐると、どうどう巡りのことにとらわれて、僕は動けなかった。

僕の子供は、もう保育器の中にいて、ロケッターの手続きを、すでに行なっていた。

本当に、僕は、何かを動かすような力を持っていなかった。

みんながテルを肯定する。

足元のガラスの破片が光って、跪く僕の顔を映した。

僕はテルの顔になっていた。

ロケットへ

そして今の時間に戻る。

僕は、もう動画を撮らなくても良いのに、目の前に広がる光景の字幕やカット割りのことを考えていた。

ロケットの中に、薄い霧が出始めていた。

僕の腕に、管が入り、血管は、ぽつぽつと、薬を受け入れていた。

手厚い保証が約束され、教育された子供達は、実に強くたくましく、様々な事業で成功を収めた。

僕は資金繰りに奔走することもなくなり、財団を作り、さらに手厚い福祉を未来の子供達に約束した。

命が制限されているから、僕は馬力を出せたのだと思っていた。

しかし、いまわの淵に、こう思った。

「僕はまだ本気になれていなかったんじゃないか?」と。

走馬灯のこと

僕は急に後悔し始めた。

息子を保育器の外から見たことを思い出した。

息子は大きく息をしていた。

彼の肌はざらついていた。

つぶれそうな指だった。

風船のようだ。

そして、はちきれそうだった。はちきれるのは僕のほうだった。

薬が効いてきて、30年が終わろうとしていた。

安楽死を「選んだ」日から、30年というように、日付を変えた方がいいんじゃないだろうか、制度がおかしかったんじゃないかと思い始めた

目の前の金ばかり追いかけちゃダメだよとしたり顔で言ってくる投資家の友人の顔が浮かんだ。

彼らはうるさかった。

幸福なロケッターたちが、未来のために、十分に保障を受け、教育を受けさせてもらえることを思い、僕も幸せな気持ちになった

しかし、僕の中で、僕が反論した

「なぜ、ロケッターが優先されるんだ?」と。

「全ての子供達に教育を保証しろよ」と、僕が怒った。

一体誰に?

犠牲になるのは、みんな子供達だった。

そんな子供達に、お前たちは30歳で死んでこい、と、僕は言ったのだ。

僕が、テルに反抗することなんて、恐ろしくて出来なかったから。

テルがこの世にいなくなっていても、僕は僕に反抗することなんて、出来なかった。

怖かったから、全部を制度のせいにして、僕の言うことを聞く、良い子の、ロケッターに手厚い福祉と教育を保証し、言うことを聞かない、悪い子たちに、重税を課し、まるでそれが真の平等であるようにした。

怖くて逃げ回って、自分には権力なんてないと信じきっていた。

圧政だったり、ひどい制度というのは、ひどい思考の末に行われるものだと思っていた。

テルに「普通だ」と言い聞かせられてきた臆病な「僕」みたいな人間が、圧政を行ってしまった。

止めなければ、と、取り返しのつかないことを巻き戻したい気持ちが襲ってきて、耐えられず、僕は煙の中でもがいた。

僕は気が狂ったのかもしれない。

「返せ!」と叫んだ自分の声がロケットの中で揺れ、窓を開けようとした。

30年の終わり

開けようとした窓が、外側から空いた。

センヨウさんが、僕のロケットを開けたのだった。

最初、光と空気に満たされ、眩しくて目が潰れるようだった。

目を反射的に閉じている間、センヨウさんは僕に話しかけた。

妄想か幻覚か、センヨウさんが本当に存在しているのか、僕にはもうわからなかった。

くたびれた声だった。

彼は宇宙研究を始めていた。

新しい街を作るから、手伝って欲しいと言われた。

宇宙にいけば、きっと開けていて、自然で、定員なんて無いと思いたかったけど、宇宙には絶対に定員がある、と、僕は僕の中で思った。

僕は、「新しさ」に、なんの希望も持てないでいた。

閉じ込められていた瞬間まで、僕は制度を変えなければともがいたのに、いざ蓋を開けられるとすくんだ。

センヨウさんが蓋を開け、四角く切り取られた世界は、あまりに、あまりに眩しくて、淀みきっていたロケットの中の空気を2秒で入れ替え、僕の中に、情けなくも、希望のようなものが湧いてきてしまった。

僕は泣いた。

自分の空気の入れ替えのために、かりそめの新しさのために、僕はあらゆる人を騙したような気分になった。

借金のない、稼いだお金を全部自分で使うことが出来るためなら、僕はなんだってしたかったはずだった。

肺が圧迫された。

僕の胸の上に、息子が入ったロケットが乗っていた。

番号が、息子のものであることが、手で触って確かめてわかった。

驚き、持ち上げようとしたら、手に力が入らず、ロケットに胸毛がへばりつき、またストンと胸の上に戻り、小さなロケットのドアが開いた。

息子は中にはいなかった。

「保育室です」

と、センヨウさんが告げた。

無数の後悔に襲われ、僕は「情けないけど、息子に恨まれるのが怖いんだ」と返した。

今すぐ死なせてほしかった。

「ど、どうやって入ったんですか」と、センヨウさんに聞くと、

「正面から、開けたいので開けさせてくださいって言ったら開けさせてくれました。」とそっけなく返される。「みんな、外部からのお願いには、もう反抗する気力が無いんでしょう」

センヨウさんは続けた。

「まだ、彼は、あなたの息子さんは、社会に出てませんからね。まだなにが好きなのかも、なにが苦手なのかも、どんな風にものごと受け止めるかも、未知数ですよ。そんな赤ん坊は、まだ人間じゃないですよ。息はしてますけど、何を思っているかはわからないです。」と言って、急に涙を流した。

「私は、社会の仕組みは理解しているだけなんです、子供が生まれてこなければ、子供は辛い思いをしなくて、借金をしなくて良いんです。でも、私は理解しているだけで、一つ一つの生活と世界が繋がっているってことを、本当に理解してはないんです。子供は、まだ人間じゃなくて、何を思うか、何を背負わされると嫌で、何を安心だと感じるか、腹がたつのか、どのように自由を捉えるか、まだ、決まってないんです。せいぜい快か不快かくらいしかないんです。まだ、あなたは憎まれてないんです。」

逆光で、センヨウさんの顔が、ぐにゃぐにゃになって、テルの顔に見え、僕は目を見開いた。

「これから憎まれるんです。」

僕のひたいの上に、センヨウさんの、テルの、涙と、鼻水が、ぼたぼた落ちた。

「あと、恨まれたくないなら洗脳したらいいんじゃないですか」と、センヨウさんの真面目な顔に戻って言った。

僕は泣いた。

どこに、正解があったんだろうか。

どこに、ずるく無い明日が、子供に保証できる未来があったんだろうか。

僕はそれを、見逃して、気づいたら手放してしまっていたのだろうか。

自分が決めたことを覆さない、ということに、テルは誇りをもっていた。

僕はテルと全然違った。

僕は、自分が決めたことを覆す道を選んだ。

センヨウさんは、フラフラでつまようじみたいな僕の腕を抜けるかと思うほど引っ張ったので、僕はロケットから出る。

新しい光ばかりではないはずの新しい街に引っ越すために、文句を言われながら、文句を言い、自分の権利を主張し、僕が奪ってきた命の制度を食い止めるために、今度こそ、僕自身を裏切らないために。

lemon

「サヨナラのある関係」

「サヨナラ」って言われる数時間前に、檸檬がケーキを焼いていた。わー、美味しそうと私が言うと、タイルがプリントされた大判の紙を取り出して、iPhoneで様々に撮っていた。

「ライティングのじゃま」と檸檬に言われて、私の持ち物は全て床に降ろされていた。ああ、可愛い。

人は欲張りだな、と思う。いや、わたしが欲張りなだけか。檸檬と過ごすこの時間が手に入れられて嬉しいのに、あったかもしれない「ともだちとの花火」に誘われなくて、こんなにも嫌な気持ちになっている。誘われなくてというよりも、誘われる候補に入っていなかっただけで、我々は、言わなかっただけで、サヨナラを言っていたのだろう。サヨナラを言えるなら良い別れで、SNSがあることで私生活が剥き出しになって、別に必要じゃなかった『幸せらしきもの』に嫉妬しなくてすむのに。

檸檬は、そう言う気分になっても良いじゃんという。
慰めてくれているのはわかるけど、嫉妬なんて良くないよと返す。

『私さ、インスタで良いね付けるんだけどさ、この良いねって、例えば『とても白い』とか、『お皿が丸くて、枠線の外側への意識があって、色を3つに抑えられている』とかいう、そういうものにつけていく作業なんだよね。もう、フィードもほとんど読んでないし、ストーリーは見てて楽しいけど、渾身の一枚見ても、作業でわけていくし、写真の中の世界にあこがれることないよ。」といって、ふう、と息をついた。

親友とか、ずっと仲がいいもの、という関係のひとがいなくて、私は残念だったけど、どうしても恋愛に発展してしまう私に、このひとを呼び寄せる力があってよかった。

良いなって思えるものが、作業になってしまうような境地で、でも、仕事というよりも、やっていたい、続けることによる肯定で、彼女は彼女自身を自立させていた。

依存されるのはいい、でも、依存は自立があるからこそのものだった。

私は彼女の人生を通しで見たことがないけど、通しでみて、私との関係があったことを、喜んでくれるだろうか。

マレーシアに行く準備でダンボール3つに自分の持ち物全てを詰め込んで宅配してしまった彼女に、フィンランドじゃなくていいの?ときく。

「私のイメージ固定しないでよ」と、檸檬が笑って、こう続ける。

「ひとはさ、人の人生を、何か全体で見ようとして、あのひとは良い人生だった、このひとはどうだったっていうけどさ。幸せより幸運のほうがいいじゃん。全体で幸せより、あっラッキーみたいのと、サヨナラってのを、潔く、書き連ねていくわけよ」

檸檬は本当に所有物が可愛いけど、旅というか移住というか、持ち物が極端に少なくて、たくさんの可愛いものを、全部メルカリで売ってしまった。私の家に彼女の持ち物は何もなくなってしまった。

比べて私は、社会の衰退や職場のマナーに悪態をついてばかりの日々で、檸檬が、あはは何それ~、サヨナラのない関係性続けるなんて不思議~と、iPhoneから写真や音楽を軽やかに削除しながら笑う。檸檬の本名なんて知らない。だけど、彼女はインターネットではずっと lemon で通していて、代官山に持っているオフィスに全ての郵便物が届くようにしていて、私みたいに気が合う人が見つかると、もちろん色々な相性はあるとは思うが…子猫のようにするりと、生活のなかに滑り込んでしまうのだった。最初に檸檬に言われたのは、「6ヶ月だけだと思う」ということだった。何が?みたいに、とぼけて答えてみたかったけど、あの美しい瞳に見つめられてすっかり参ってしまって、ハーゲンダッツの桃味を贅沢に食べながら、私の狭いシングルベットに檸檬も一緒に収まり、溶け合った。

じゃあ、ちょっと一ヶ月はやくなったけど…と言いながら、檸檬は玄関に食卓に飾っていた鮮やかな花たちを輪ゴムで止めてスワッグにしてくれた。そして、逆さまにして天井から吊るした。なんでなんで、と言って、駄々をこねてみたかった。だけど、彼女のポリシーがあってこその彼女の自由を、私は尊重したかった。もう心はずたぼろだった。檸檬がうちに来てから、タバコはベランダでしか吸えなくなったけど、代わりに部屋は水切り花に溢れ、良い香りにむせ返りそうだった。私はむわっと暑いベランダに出た。檸檬は、「どう思うの?」と聞いた。どう思うって、私がどう思うかってこと?と、バカみたいに聞き返した。私は、檸檬にそのままでいてほしくて、出発前に、喧嘩なんかしたくなくて、へらへら笑っていた。檸檬は「私はあんたと喧嘩したい」と言って、散らかったタバコのカスをサンダルでバシバシと蹴り飛ばした。檸檬らしくないなと思った。お土産よろしく〜なんて言いながら、檸檬ともう二度と会えなくなることをゆっくり受け止めようとしていた。現実には目の前に彼女がいるのに、タバコが嫌いな彼女がベランダに出て来ているということが、風景を幻みたいにしていた。颯爽と去って、またInstagramに美しい白い写真をアップして、私を泣かせて欲しい。ぐしゃぐしゃ泣いて鼻水たらして、檸檬に恋い焦がれていたい。だけど、泣いたのは檸檬のほうだった。いつも終わりを決めるのは、先に泣かなかった方だ。信じられないことに、私はうっかり彼女に勝ってしまった。かわいそうな彼女は、自分が泣いているということが悔しいのか、何度も舌打ちしながら、怒ったように押し黙っていた。彼女のような美しい人にとって、この世の中は無秩序でめっぽう汚い地獄のような場所だろう。もうバス行っちゃうよ、と言い、譲歩して、私の原チャの後ろに乗って行ったら暑いよ?、と問いかけたら、暑くていい…、と言われたので、私はTシャツに着替えてヘルメットを投げた。うちから銀座は案外近くて、銀座からのバスに乗れば成田に十分間に合う。Tシャツのせなかの部分がどんどん濡れて熱くなって言って、私はドギマギしながら、なんだかこれじゃ私が檸檬を振ったみたいだと思って解せなかった。私は檸檬を愛しているから、振られたって振ったってどっちでも良いんだけど、思いがけない引きずる失恋も、私たちの最後にはふさわしいかもしれないな、と思った。銀座のバス停にまもなく着くと言う時に、檸檬はやっぱり東京駅から行くと行った。東京駅も経由するバスなのだ。この酷暑に、勘弁してくれ!と私は実際に叫びながら、やっぱり彼女を東京駅に送り届けた。東京駅の丸の内側で、汗でべとべとの私から走って離れた彼女が、iPhoneで私の方を撮影し、戻って来た。「ありがと!ありがと!」と言って、すっかり元気になって私の手を握ってピョンピョン飛び跳ねたあと、手を振りながら、「じゃあね!」と行って、走って去って行った。眩しいくらいの笑顔だった。心も体も濡れぞうきんのようになった私は、かわいそうに、財布を忘れてきたので、カフェで物思いにふけることもできず、原チャで小さい公園まで走って、レモンのインスタをチェックした。原チャの私が映ってるんだろうかと思ってワクワクしていたら、なんと、見事に美しい東京駅だけが写っていて、私は影すら見つからなかった。あまりに鮮やかな色だった。なんだか一気に力が抜けて、これでこそ檸檬だぜ!と思って、私は笑ってしまった。旅に幸あれ、たくさんの幸運が、君に訪れますように。そういえば「最後はサヨナラって言って去るの!」と言っていたのに、言われ忘れていた。かといって、妙にひっぱるような「またね」じゃないだけ良かった。私は帰りに思いっきり泣きながら帰るか、と思って、「僕をだましてもいいけど」も「本当のことが見えているなら」も、すでにやってしまった思い出とともに走りながら、旅立つことを勇気を持って決めた彼女の為に、「サヨナラ!」と歌った。

meichang

以下は全てフィクションで、書いている時に切ったり避けたりして、お話の中から溢れてしまったものです。よかったらどうぞ(完結してません)

1.

ストーカー被害から自分の体を守るのに、こんなにお金がかかるなんて知らなかったってことを、いったい誰に言ったら良かったんだろう。私はフロントにタクシーを呼んでもらうために、9番、と隠語で伝えて(隠語で伝えなくちゃならない!)、友人の家に行った。

もっとお金もらった方がいいよ、と、友達は言った。もっとお金・・と、思っても、これは私的な関係なんだから、ただの欲深い女に見えないだろうかということに、心が参ってしまいそうだった。もらって、郵便ボックスに差出人不明の手紙が届くまえに、郵便局員でない人間がポストの前に来たら、声をかけてもらえるようなボディガードをやとわなければ。

2.

メイは、パーティーに行きたくなかった。

なぜかというと、まず第一に、無意識の間に、自分はキャバ嬢として振る舞ってしまうからだ。 第二に、行くことの意味がわからないからだ。結婚関係はもちろん、友人関係ですら、雇用関係のように、明快に、開始期間と終了期間、会話で使っても良い言葉やテーマの範囲を定めて欲しかった。ほとんど、知らない人、踏み込んだ会話をするときに、「それは旧時代的なセクシャル観ではないか」などといちいち考えてイラつくのが止められなかった。

<この人とは、役割強制的な会話は不要>などと、ひとつひとつ定めて行きたかった。同居人、なんかはわかりやすい。友人ではなくて良い、ただ、事実として同居している、そういう関係である有里とは、2年間の契約をしていた。 無駄な会話をして、自分で勝手に傷ついてしまうから、パーティーには行かないように気をつけていて、だから、有里と遅い夜の食事をしてから、気づいたら近くのマンションの地下で座ってアコースティックギターの演奏を聴くハメになったことを、本当に後悔していた。地下の談話室には、演奏者の若い男と有里の同僚たちの計5人が座っていた。東京で部屋を借りるためには、労働者2人以上が共に暮らして新住民税を下げることが習慣化していて、談話室は広めがスタンダードだった。家賃は安くても、一人で借りると税金は高いのだ。風営法でクラブやライブ会場は全て閉鎖され、ダウンロードも強く規制され、アップルミュージックは提供終了してしまっているので、ほとんどの音楽は民家の談話室に持ち寄りなのだ。終電で絶対に帰ろうね、と、有里に懇願して、我慢しながら時計を睨んでいたら、有里は「今日は泊まっていくね」と言った。メイはかなりきつい気持ちになって、有里に、「契約は?」と言った。

3.

息子の助け (それぞれの事情、事情に私は興味がある。これは単純に育児ノイローゼなのだと思う。私の、私たちの子供が生まれる以前の、あるいは生まれないとしても。)

花男が私のことをじっと見ている。ユーレイだ。いや、私の妄想だ。いや、これだけは根拠なくはっきりと言えるが、彼は私の未来の息子なのだ。 「だから、毎日基礎体温つけて、今日から期限悪くなりがちなPMSだよとか子供できる日だよとか言ったじゃん。良いから抱けよ殺すぞ!」 と、夫に叫んだ夜、花男(はなお)は私のそばにやって来た。

結婚する前からセックスレスの私は、「やっぱり子供が生まれてから結婚した方がいいんだな、昨今は」と自嘲気味に言って、PC画面だけを見つめてぼやんとした返事をする夫が「落ち着きなよメイちゃん」と言ってくるのを、何の感情も込めずに見つめた。

「子供を産んだら、助成金が出る社会だったらいいのにね」と夫が冷静に言って、私は「わかってるよ、ごめん、ごめん、PMSが…」と、泣いてしまった。ユーレイみたいな、妄想みたいな、小学校低学年の風貌の、だけど高校生くらいに見えないこともない、透けて見える男の子のいる日常は、ちょうど一ヶ月前の四月に私の肌に濡れたシャツを着てしまうように始まり、私の日常に馴染んで、私をますますノイローゼへと追い込んだ。私たち夫婦は貧困層で、結婚適齢期で、子供を産む適齢期で、でもセックスがないから、子供がほんとに産むことができるのかといったことがわからず、不妊治療の知識が私の中に溜まっていった。溜まって淀んで、きちんと会話できているはずで、二人の収入を合わせればなんとか200万にはなるが、税金に怯え、けれど切り詰めているわけではないような、のんびりした、子供は持てないレベルの、不安な日々を送っていた。家計簿をつけていれば、自由に使えるお金がいくらかあることはわかった。親にも少しだけ頼れる甘えられる環境だ。だけど、夫が、アレルギーで体が弱くて、セックスの前に疲れてしまっていて、もしかしたら私に魅力がなくて、もしかしたら日本で子供を持っても大学には行かせられないくらい、未来へのビジョンがなくて、ああ、考えるほどに、私が立ち回ってできる範囲の子づくりはもう手を尽くした。夫はもう疲れてしまって子供についてまともに話せない。それどころか、貯金用に渡したお金を使い込んでいた。私が掃除をしていたら、紙に口座番号が書いてあって、だけど支店番号が書いていなかった。ああ、振り込んでないんだ、と、なんかがっかりして、切なくなってしまった。

「お父さんにはがっかりしたよ」と、花男に向かってつぶやいた。花男の教育に際しては、お父さんの悪口を言わないほうがいいだろう。だけど、どうしても言ってしまった。生まれる前の花男は、「僕大学に行けなくても大丈夫だよ」と言った。そして、ベランダのランタナをしげしげと見つめていた。

ーーー

こんな感じでした。メイちゃんの話はもうちょっと書いてもいいかもしれない。

婚後の話 1

◇籠の目

南富山行きの路面電車の窓に映る山々が雪を冠のようにして空との境界線をはっきりと分かち、私たちを見ていた。12月の空はすっきりと青く、東京よりも水分を含んだ空気にほっとする。私たちは富大で電車を降りた。新井五差路さんの歩幅が大きく、気づいたらずっと先にいて私を呼んでいた。「はやめに行かないと、雨が降ったらみれません」と、立山が見えなくなる心配をしてくれた。呉羽山の民芸村から頂上まで、まだあと15分はかかりそうだ。ここに来てから2日間晴れていることを、売薬資料館の籠を見ながら伝えると、「う~ん」と言って、金藤さんが来る1週間前はずっと雨でしたよ、と五差路さんは眉を下げた。

私は東京で夫が私に「あげた」という、籠を探していた。結婚する前に、確かにもらった気もするのだが、どうにも思い出せない。私は富山に仕事の用事もあることもあって、その、「籠」に似たものがありそうな民芸村に来た。正直、日常の中ではそんな些細なことは忘れている。しかし、富山に1週間行くという予定が立ったところで、急にその籠についてを思い出した。私たちはとても現代的な夫婦で、仕事では別々の苗字を使い、指輪などもいらず、つまりモダンな生活を志向した。ただ、名前や所有物については旧社会批判もあったが、「墓を守って行く」といったことについて、私はとても興味があった。それは歴史的、民俗学的な興味からであり、日々、手製の神棚に手を合わせて自身の心を安らがせていることによる、「習慣的な癒し」に後押しされた魅力であった。私も夫も、それぞれが自由だ。しかし、それは私達らしく無い、とても旧社会的なものの裏返しばかりを求めてしまうが故の振る舞いなのではないか?「籠」は、彼の曽祖母のものであったらしい。部屋の畳の中にあると、なんでも捨ててしまう彼でも、捨てることすら忘れてしまうくらいの自然な雰囲気で、ついに残しておいてしまったらしい。私たちはとても自由で、自立していて、だからこそ死んだ時にどちらの墓に入るか?といったような、避けては通れないはずの議論を、いつもし損なった。彼の家は何度か跡継ぎが途絶え、墓は分からず、一番古いものといえば籠だったそうだ。彼の、学校の先生をしていたという祖母の手先は器用で、手編みのベレー帽を見ると、ああ、こうやって昔籠を組んだ遺伝子が混じっているのかもしれない、と、思いを馳せることがあった。敬う気持ちと同時に、ある程度、触れてはいけないような、禁忌こそ感じた。人は恐れによって人を支配してはならないといったようなことが、おそらく「新しい社会」に生きる現代的先進的な人々に課されている。しかし、人間は、恐れているものについてを優先し、愛しているものについては簡単に壊してしまうような性質を持っている。人間という、身体的に見て脆いものが、代々守ってきたものを簡単に紛失していいわけがない。

私は結婚し、自由であるはずなのに、何かを恐れている。もらったはずの籠を、日常の中では紛失している。だから、せめて民族民芸村に来て、ああこういうものか、と見て、言い方を間違えてしまうかもしれないが、なんだこんなものかと諦めてしまいたい。夫が忙しくて、私は時間があった去年の冬の話だ。

呉羽山の頂上に登ると、立山連峰が視界に収まらないほどの大きさで目に飛び込んで来た。とたん、私は脳の中でキリキリと稜線を引いて行く。子供の時に鉛筆で写生をするようになってから、私は何かものが目に入ったら、即座に心で線を引いてしまう。木にも、雲にも、山にも。境界線を強い線でひいたら、反対側はぼかし、立体感を出していく。そうやって、画面の中の材質の違いを強調するのだ。よく見て、形をとらえ、画面の中で再構成する。脳写生は私の癖であり、習慣だった。量感を、線で構成していく。全く違うものが隣り合った時には、はっきりとキワを描く。きっちりとキワを目立たせる時は、こことそこは違うものであるのだと警戒するような気分で、清々しかった。

五差路さんが、普段は富山で山を見てもそこまで感動しないけど、これは、さすがにすごいですねと笑顔だった。私は普段山を見ないので、その倍感動した。その後、途中で配布されていた、様々な民芸品の載った民芸村のパンフレットを読みながら歩いていると、五差路さんが降りて行く道の脇に、「大仏」と書かれた木の看板を見つけた。

どうしてこんなところにと二人で顔を見合わせたが、せっかくなので階段を降り、民家の庭にある、6mはあろうかという個人蔵の大仏を見た。この大仏が、ただ、民家に迫らんばかりの迫力で立っている事実はもちろん、大仏が水平に首をひねってやや右に向いているのが気になった。体と顔が違う向きを向いている。そして、その目線のところに、民家の2階のバルコニーがあり、そこに、40cmほどの目籠があって、私は飛び上がった。「五差路さん、目籠が」と言って、振り向くと、そこには五差路さんの半分ほどの背丈の小鬼が立って居た。

驚きすぎて声が出なかった。しかし、相手は人間でない分、間違いなく恐れることができると言う安心感が同時にあった。奇妙な感覚だった。人は何かを畏怖する時、初めてみずみずしい美しさを手に入れると思う。そして、恐れることで、自身と自身以外の境界線をくっきりと描かせる。もっと、私たちは違うのだという、わかりやすさが、生活の中にもあればいいのに。怖い!と恐れることのできる、小鬼を見続けた私は、「あっ」と思い出して、手に持っていたパンフレットの籠のページを小鬼に見せた。。小鬼はワッと慌てふためいて、ぼやけて消えた。いつだって、相手との立場は交渉が決める。怖いものに対してでもそうだ。そのみずみずしさを、私は失っていたのだと思った。勝ったような負けたような。ともかく、籠を見せてみてよかった。

籠の吊られた民家のチャイムを鳴らした。私は民俗学の学生で、二階に吊った籠を玄関に吊った方がいいということを女性に伝えた。ああ、久しぶりのいい天気だから、吊っていた目籠を玄関に下げるのを忘れていましたよ、と返され、ふふふと笑われた。女性は今焼いたのだからといって、鰯を私によこし、カゴを玄関に下げた。私は駅で買った吉乃友を女性に渡し、もう一度観音様に手を合わせた。

小鬼はすでにいなくなり、五差路さんが観音を撮っていた。「あの目籠の場所が違ったそうです。」と伝え、あの目籠が、夫のものであるかを考えた。違うけれど、何かが正しい場所にあるということが、私たちの姿勢を見えやすくしてくれると思った。目籠は一種の魔除けで、多くの目で見られては、鬼が恐れて近づかないのだそうだ。

夕方、五差路さんと別れ、夫に電話をした。夫はすぐに出て、籠がシンクの下の戸棚にあったと教えてくれた。そんな湿った場所においてしまっては、どうりで湿っぽいやつが近づいてきてしまうわけだと笑って、彼に、お墓まいりについて、今度お義父さんに聞いてみよう、と尋ねた。お墓について、聞いていい人と、聞いて答えがない人が混ざる家族だが、そういうこともある。お墓はきっとどこかにあるのだ。籠が私たちの手元にあったように。お彼岸じゃなくても、聞いて見るという行動が、墓参りに一つ近づく作法であろう。

どこに行ったって誰かとの距離や目が気になっていたのに、今は私の体にも、皮膚を突き破って生えた目がたくさんあるようだった。いや、怖いことをいいたいのではない。自分の中に客観性を持っておくという話だ。自分に目が二つしかないなんていつ決めたんだろう。もっとはやく、この沢山の可能性に気づけばよかった。これからは、もっと冷静に、真摯に、生きていけるだろう。籠の目が私を見守り、可変する私に輪郭を与えてくれるだろうと、籠の効能を勝手に決めた。

 

 

写真提供:新井五差路

明るくて苦言

叔父は、主義の無い仕切りをしたがる、他人の繊細さに土足で入ってくるような人だったので、僕はなるべく彼の飲み会に参加しないようにしていた。前に飲んでいたときに話した、仕事がこういう条件でも良いかという話を、あろうことか僕の職場の先輩にしてしまって、大事には至らなかったものの、僕は随分憤慨したものだった。

ただ、家族経営の北陸の酒蔵の、時々電話がかかってきて予約を受ける見学コース(といっても、蔵の鍵をあけるだけだが)の仕事は、叔父と母と兄と僕だけで行っていて、あまり人気もないので、とりあえずほとんど叔父任せでいた。

 

そんなときに、叔父が風邪を引いたということで、僕に電話がかかってきた。明日の見学を、変わってくれないかということだった。明日は友人とライブを見に行く予定で、それは夕方からだし、実はそこまで興味のないバンドだということも手伝って、僕は友人にキャンセルの連絡をした。それで、夜に変わってもらうか決めるということだったが、また電話がきて、夜ではなく明日の朝7時に変わるかどうか決めるので、また朝に電話すると言われた。もし変わらないことになっても、それはそれで面倒くさいなと思った。いけるいけないいけるといったやりとりをすると、相手には本当に嫌な印象を与える。しょうがないので友人に曖昧なことは送らず、明日の予定はあけておいていた。朝起きると、母を含む全体メールで叔父が薬で復活しました!お騒がせご心配おかけしました!見学は僕がやります、

とメールが来ていて、僕はわりとがっくりきてしまった。治ってよかった、とは思うが、結局はこの人は僕が振り回されたり、他人を振り回したりしたくないという気持ちについてはわかってはくれない。

 

それで、昼頃に叔父に会って、今後はやっぱり夜に決めてほしいわ、と、まあ嫌みか嫌みじゃないかわからんさっくりと言ってみると、(僕は小学校まで金沢にいたのでわりと京都的な嫌みを言うキャラだと思う)突然叔父は、「は?」と言った。

 

叔父は、たまから電話で確認して、聞いただろうが、それは、ものすごく気を使ってるだろうが、気を使ったつもりやけど、その予定は復活できないのか、そんなことに今気づくなんて、学べて良かったな、と、俺が言うことじゃないかもしれんけど、と、まくしたてた。

 

僕の中の常識としては、そんな風に気軽にスケジュールを入れたり出したり、ところてんじゃないんだから、できない。相手の予定や時間を、適当にみているやつだと思われかねないので、当然復活できないってことが、叔父には、伝わらない。なぜ相手の時間を大切にする態度というものが伝わらないのだろう、と思うと同時に、他人の繊細さに土足であがるタイプの彼でもって、いわゆる嫌みのようなことを、言ってみることもあるんだなと、妙なところに新鮮味を覚えて、言われている言葉に対して、そこまで嫌な気持ちにならず、驚いていた。

 

自分が、相手はこういう人間だと決めてしまっていても、他人はそこを軽々と越えてくる。面と向かって嫌みをいうところが、嫌みとしては甘いが、それでも、自分の中の叔父のイメージが書き換えられ、更新されたのだ。人間の豹変する姿をみるのが、興味深いんだなぁ、と、なんだか納得してしまった。

 

 

黙っている僕に、まあ、今日が良い日になるとええな、と、言った後、俺のせいですみませんでしたね、と、変なトーンで言われた。嫌みにも聞こえるし、本当に謝っているようにも見える。何にせよ、どんなに嫌でも、少なくとも言葉にしてもらわないと何を考えているのかは他人には分からないし、こうやって、嫌なことを嫌だと言っていくしか無いのだろう。

 

 

最後に、こんなに辛気くさい蔵も、こんなに明るいおじさんに大切にしてもらえて嬉しやろなぁ、と、叔父に聞こえるか聞こえないか位の小さな声で言った。これからも変化し続ける、俺の最大級の賛辞を込めて。

orange

2018年3月29日

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◇橙の花の習慣

朝起きて、2分間プランクをする。プランクというのは、腕を動かさず、腕立て伏せの姿勢を保つような、ある程度簡易な筋肉トレーニングだった。私はこの習慣を、2015年から欠かさずにいた。

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夫が、「俺も筋トレしようかな」と言った。これは私にとって衝撃だった。なぜなら、彼は「筋トレをなるべくしないように日々努力している」と豪語し、友人たちとの突発的な腕相撲トーナメントで清々しく最下位を取った男だからだ。「ツイッターを見たんでしょ」と私が言うと、あからさまに驚き、なぜ知ってるの、と言う。私は、フリーランスに筋トレを勧めるツイートを昨夜見て知っていた。「煙草をやめるツイートも、誰かしてくれないかなあ」と、軽く呟いた。誰かにやめろって直接言われても止めないだろうけど、ツイートを見たらやめてしまうかもしれない、と、夫は変な顔をして言った。そして、オレンジの花が描かれた、60cm程の高さのまん丸とした花瓶から、タバコを取り出して、私たちのバルコニーに行って火をつけた。バルコニー。ここに、人口芝でも植えてみようかと血迷って金額を叩き出したこともあったけど、1週間ほどして、そんなことを考えていることも忘れてしまった。それよりも、朝は簡単にストレッチをして、簡単なお粥と納豆を食べて、とっとと出かけてしまった方がいい。

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出かけた先の竹橋は、桜も桃も観光客を満開の花びらで出迎えていた。近代美術館の年間パスポートを2年前にもらっていたのに、使わないままここまで来てしまった。パスポートを見せ、「来年の3月末まで有効です」と言われ、3月1日に来ても3月31日に来ても、3月末まで有効であることに気づく。しまった、と思った。しかし、ポイントカード等を持つのをすっかりやめて、そのことですっきりした気持ちになっていたので、思い直して、30日くらいのことでがたがた言うのはやめよう、と考え直した。

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しかし、30日あれば、人は習慣を作ることができる。簡易なストレッチも、朝起きる時間も、30日間どうにか続けられれば、逆に依存して、抜け出せなくなるのだ。家にある橙色の花が描かれた白い壺も、また、夫がなんでもなげこめるように持っているものだった。あれはどこにいった、これはどこにいったと探さずに済むように、鍵と煙草はこの壺へ、と習慣化させていっていた。この壺は、実は一度金継ぎしてあって、割ったのは作者の私の友人だった。美大の工芸棟で、金継ぎされてあるこの壺を見て、「これ、いいね」と言うと、友人は笑って、「練習だけどあげるよ」と、プチプチと段ボールに包んでくれた。これは良いね、と、ちょっと良いと思ったら言う癖も、私は人生が生きやすいように習慣化したものだった。だって、良いものをなるべく良いと言うようにしていたら、私にもいつか「いいね」と言ってくれる人が現れ、その人数が増えるかもしれないんだもの。なんにせよ、私は優しい感じのもの、暖かい色のものを褒めるような癖を、日常に落とし込んでいた。

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あの壺の釉薬の色、廃盤になっちゃったんだよ、と、有楽町の駅ビルに入っているカフェで、「壺の作者」の友人が呟いた。しばらくぶりにあった彼女と、彼女の0歳6ヶ月の娘の、鼻や口元が似ていることを何度も確かめて不思議な気持ちになる。彼女はきな粉をミルクティーに入れるのが好きで、なるべく季節に合わせた特別なお茶を飲むことが好きだった。私は彼女のそう言うところがいいと思っていた。千葉から赤子を連れて電車をのりついだ友人は、甘いお茶に飢えていた。洗濯機をいくら回しても終わらないことや、新作のイチゴパフェを食べられなかったといった日常の話と、好きな漫画の話をひとしきりしたあと、再度制作の話に戻る。

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作品作りに、ここまで習慣が有効だったなんて思ってもなかったよ、と、何かに気づいたような、ひたすら諦めたようなトーンで、語る彼女の毛が、明るいカフェの中でふわふわとそよぐ。私は、ほとんど1日置きくらいに、彼女と連絡をとっていた。私は突然連絡を途絶えさせてしまうことがよくある、自分の性格について、何度も悩んでいた。しかし、彼女に、連絡途絶えさせるくらい何よ、いつだって、突然縁を切るみたいに勘違いするのは相手なんだから、あんたはあんたがしたことに、勘違いをせずに、縁を切ったんじゃなくてボリュームを下げたのよくらいの心構えでいなさい。自分を自分で取り違えちゃだめよ、と、砂糖を30回くらい入れたようにざらざらとしたコーヒーをすすりながら言っていた。巷では糖質制限が流行っていたし、白色の砂糖は中毒性が高いから気をつけなくてはいけないよ、と、私が三温糖をすすめると、何よ、下の毛が抜きにくくなるじゃ無い、と、ゲラゲラと笑った。彼女は白砂糖とレモンを使って、アンダーヘアの処理を自分でしているのだった。どんなことも、自分の手で作るのよ、習慣は、思い切り向き合うんじゃなくて、なるべく視界に入るくらいの距離に、やりたいことを置いておくといいわ、と、教えてくれた。

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いつだって、生きていくために必要なものは、そんなに多く無い。お家の中で何かがどこかへ行ってしまったって、案外必要じゃなかった、みたいなことだってある。帰宅して、春の突然の暑さにボーッとしてしまって、水筒の水を飲んで、寝転がって、一息ついた。それから靴下だけを着替えて、玄関に行って、もう売られていないという釉薬で暖かく着彩された壺を見る。なんて美しい、やさしい形。どうしたって必要な鍵と、彼にとっては煙草とを、壺から出して、横に置く。それから帰りがけに買ったベルフラワーを植え替える。なんて可愛い花。壺を抱きかかえて、畳の部屋に置いたり、机の上に置いたりして眺め、写真を撮った。なるべく視界に入るくらいの距離に置いておくべき、私が大切にしたい形っていうのは、こういう形で、この形のようなものを、生活に落とし込んで生きたいんだ。それは、無くしてしまった何かを探している時間とは対極の考え方のように思える。なんでも無い、雑な私の日常の中で、あれこれ工夫して撮影した写真が、私の人生はこのような美しいものでもあるのだ、と、誰かに褒められているようでくすぐったい。思い返せば、私はこの壺に、やっぱり、今、いいな、と思うものをどうしても植えたかったのだ。

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彼が大事なものをなくさないように、この橙色の花の壺以外に、何か箱を用意してあげよう。例えば菓子箱のような。みんなが嫌厭する、白砂糖たっぷりのクッキーの缶を。マンダリンを入れて、ゆっくり一息つこう、と思うのだった。

balcony

ベランダ
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いつか新品の部屋に住もう、という夢が、僕の心を豊かにしてくれていた。
夢はいつも胸の中で光る。小さいころ、いつも芸能人の部屋を紹介するテレビで、彼らのこだわりや間取り、リビングの広さや吹き抜けの気持ち良さを見ると、住処というものを愛することは人生そのものなんじゃないかと思えた。14歳の時、1ヶ月くらいオーストラリアにホームステイしたら、バルコニーのバラが綺麗で、いつか小さくてもマンションでもいいから、自分だけの家を持って、ベランダにバラを咲かせたいと想像したのだった。
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「なおみ」
と、ワゴン車の助手席から、後ろに乗っている僕に、父さんが声をかける。僕は直文という名前だが、父さんはなおみと呼ぶ。土曜日の朝だった。18歳になった僕は大学一年生で、ありきたりな五月病にかかりつつ、毎日眠くて今日も引っ張り出されたのがイヤだったので、ちょっと舌打ちしながら、何、と聞くと、「ほら、家」と言われる。右手に、ボロ家が見えた。外壁が白く塗り替えられたようだ。運転席のデンさんが、おお、と感心したように声を出す。デンさんは父さんの親友で、建築の仕事をしており、ガッシリ引き締まっている。「トビなの?」と僕が聞くと、トビやってたけど腰をダメにしたひと、と言ってヘラヘラ笑った。ボロ家は今日から住むわけではなく、父さんとデンさんと誰か父さんの友達たちとコツコツリフォームして住むと言う。父さんもデンさんももう50歳になるのに、こういう学生っぽいことが好きだ。リフォームだって金かかるのに、と、僕は文句を言いながら、車を降りた。ここに来るのはもう3回目だが、自分がこのボロに住むつもりは毛頭なく、今日も2階のベランダでタバコでも吸っていよう、と心に決めていた。このベランダは6畳ほどあり、なかなか広くて、下を見ると草がぼうぼうに茂っていた。デンさんが工具品で有名なマキタの掃除機を一階でかけている音が聞こえた。ベランダでうつぶせになって、チラチラ見えるデンさんを上から見ていると、草でぼうぼうになった庭にデンさんが入っていって、60cmくらいの太さの木に何か細い紐のようなものを巻きつけていた。ぐいぐいと巻いて、しめ縄のようにしたら、デンさんは木に手を合わせた。なんだか神聖な様子を盗み見てしまったような気持ちになった。
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僕には特定の信仰なんてないけど、手を合わせるとすっと心が晴れるような気持ちはわかる。あんな小さい木に神なんて宿ってないだろ、と、普段の僕なら言ってしまうかもしれないけど、高いところから見たデンさんの行為には、不思議とほっとするような、人を勇気づける力があった。じっと眺めていたら、急にデンさんが振り返って、僕を見た。カッと顔が熱くなって、目をそらす。やる気もないのに、来いと言われたら断りきれず、ぶつくさ言って、2階でダラダラしてる自分が恥ずかしいと思った。
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1階に降りていくと、父さんがマキタのコーヒーメーカーでコーヒーを入れていた。あちあちのコーヒーをすすっていると、ギュイーンというけたたましい音がして、僕は庭を見に行った。そこでは、軍手でペリカンばさみを持って、庭の木を剪定しているデンさんがいた。横手にはデカイ草刈り機と草の山があって…木でできたフェンスとアーチが倒れていた。これは、昔オーストラリアで見たような、バラの為のアーチだろうか、ツルがカピカピになってアーチを取り巻いていた。ツルのあるバラが生えていたのかもしれない。なんだかちょっと悲しい気持ちになって、倒れているアーチに近寄った。
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「隣の家がツゲやってる」
デンさんが僕に言った。デンさんに見られるとむずむずした。つげ?と聞くと、デンさんは、うん、と言う。「ツゲは、バラと相性悪い植物」と。あっ、と思った。それで、この家のか弱い花は、死んでしまったのかもしれない。キンメイツゲはどこからともなく生えてくる低い木で、バラの根張りを邪魔することはなんとなく知っていた。この家が死んでから、隣の家はツゲを植えたんだろうか。家を手入れする人がいなくなっても、バラは生きていたんだろうか。バラなんて難しそうな花は、庭木くらいで死んでしまうのだろう、そう思うと、あんまりだった。なおみは気難しい、とよく父さんにからかわれ、父さんに言われたくない、とすぐに嫌味を言う自分がもっと腹立たしかった。デンさんのようにどっしり構えていたかった。デンさんに話を聞いて欲しかった。
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「2階のベランダでバラやろうか」
デンさんはそう言いながら、アーチに巻きついているツルや細い木を丁寧にペリカンばさみで切っていっていた。バラなんて弱いの、俺らに育てられるわけないじゃん、と憎まれ口を叩くと、デンさんは「いや、バラは丈夫だよ」と言った。ちょっと驚いた。「手間がかかるって言われがちだけど、場所にあった種類をきちんと選ぶと結構楽しくできるんだよ。新苗は数年かかるけど土に根付き易いから、アーチのツルはこのままにして、とりあえず大苗を買いに行こうか」と言った。いつものデンさんより、少し興奮しながら、バラについて語るデンさんが、可愛かった。彼は「俺は結構手をかけるのが好きだから、バラ結構好き」と言った。「気難しくて、手がかかるよーなものが?」と聞くと、「気難しくて手がかかるっていうのは、誠実ってことなんだよ」とにこにこしている。誠実。「誠実さっていうのは才能さ」と、デンさんに言われる。明らかに、まっすぐに、僕の心に入ってくる言葉。おろおろしてしまった。デンさん、まだ冬じゃないけど、プランターをたくさん買おうぜ。1年目の蕾は、ちゃんと剪定しよう。お金がかかるけど、肥料をきちんとやろう。僕とデンさんと、そして父さんのベランダを、バラでいっぱいにしたい。そして寝転がって、一階の雑草を見下ろし、しめ縄を新調した木を眺めて、目を閉じよう。僕は、僕たちのベランダのために、勉強して、働いて、汗を流したかったのだと気付いた。僕を「丈夫」にしてくれた二人の男達のために、とびきり綺麗なピンクと白とミックスのバラを育てて、コーヒーを飲むのだ。デンさんの首筋には汗が、僕の目には涙が溜まって、自分自身を肯定するまっすぐな気持ちが育まれはじめていた。
(2018.08 「便箋BL」)

floor

フロア

 

「変な名前」
花男は12年もののリベットをロックであおって、「ユカ」という名前の僕にそう言った。ウイスキーをそんなに水みたいにゴクゴク飲む人間をはじめて見た。靴で足元をコツコツしながら、「床じゃん、床」と、笑う。長い足のやつはすごい。君に言われたくないよ、と返しながら、僕はマカダミアンナッツを頬張った。

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花男。はなお、と読むらしい。冴えないポロシャツにスーツのズボンを履いたマーケッターの僕と彼とはつい2時間前に300人は余裕で収容できるハコの男性オンリーのSMショーで出会った。花男は、ジャーナルスタンダードのデカめのシャツをさらりと着こなし、美しく磨かれたビルケンシュトックの黒のローファー、そしてパジャマのようなストライプ柄のズボンを履き、丸い色つきメガネをかけた180cmの色男だ。同じ32歳だそうで、リーマンだというが、荷物はどうしたんだと聞くと、近くに住んでいるから置いてきた、普段はスーツなんだけどね、と斜め8度首を傾けてはにかむ。ついスーツ姿を想像してしまった、かっこいい。待て待て、ここは新宿のど真ん中だぞ、と、「近いところ」に住んでいるという花男の豪勢な暮らしぶりにたじろぎつつ、しかし、そのなんとも言えない色気に誘われて、つい、ほいほいとウイスキーバーにまでついてきてしまった。僕はバイだが、どちらかというと憧れがありつつも、うまく人と付き合えた試しがなく、気後れしてしまうのだった。

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「名前にさ、負けてるじゃん」
負けてるじゃん、名前に、と同じことをもう一度続けられて、僕はむっとした。どういう意味だよと聞くと、「結ぶ、花、なんでしょ。まだ、結べてないでしょ」と、自分がゲイとして誰かと関係性が結べてたことがないことを見抜かれる。「いい香りなのにね」と、うなじを嗅がれる。ちょっと!と、席を立とうとすると、ニヤニヤ笑って、「安心してよ、ここそういう場所じゃないから、それ以上近づかないんだ」と、急に紳士ぶる。「まあでも補填しあおう」と、今度は花男がマカダミアンナッツをくるみ割り機のようなおもちゃで割り、神妙な顔をした。足りないものはいっぱいあるからさ、と。「花を結ぶやつに結ばれる男が俺だろうし」と、僕が場慣れしていたら、甘ったるさに吐きそうになって帰るだろうようなセリフを吐く。だけど情けないことに、僕はウブだった。それに、慣れないリベットを3倍も飲んでいた。ショーを見に行っている時は水で薄まったサワーばかり頼んでいたが、ウイスキーはきちんとしたところで飲むとこんなにすっきりして美味しいのか。花男は、数秒毎に新しい世界に連れて行ってくれるように感じた。けれど、それは花男にとってはありきたりで、つまらないことなんだろう。息をするようにモテる男、それが彼なんだろう。まさに花がある男、名付け親は彼の未来をぴたりとあてていたのだ。

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「名付け親は父親」
と、彼がキッチンで言った。僕たちは彼のタバコ臭いキッチンに並んでいた。歯だけ磨かせて…と、どうにも気を張り詰めすぎてしまった僕は、彼にキッチンを使うように促された。「母親が、はなおって名前でいじめられたらどうすんだって言ったらしいけど、子供はどんな平凡な名前つけてもからかう理由を見つける天才なわけだし、花のある人生を送る男っていう真っ直ぐな名前を、親はつけたかったみたいよ」そうですか…、と、突然敬語になる僕に、花男はぶっと吹き出す。汚い!というと、ぶっ、とオナラをする。ひどい…こっちは覚悟を決めてきているというのに…。壁に貼ってある世界地図が気になって眺めていると、「そのピン刺してあるとこが行ったことあるとこ」と言われる。グローバルエリートかぁ…と感心して、どこが良かった?と聞こうとして、少し穿った質問をしたくなってしまい、どこが嫌だった?と聞いた。「カンボジア」と言われたのが、意外だった。「正確には、カンボジア行って、何もできなかった自分」…カンボジアに行って、物乞いと会って何もできなくて、そのあと、収入の1パーセントを毎月寄付するように団体と契約したら、特典で子供達から手紙をもらうようになったという。ベッドの上で僕の髪をぐしゃぐしゃとなでながら、うさぎマークがどうどうと入ったチャリティーのダサいピンクのTシャツを着た花男が僕をぐーっと抱きしめる。「それで、手紙はすごくこだわったものから、おいおい手抜きだろ~って感じのまであってさ、溜まっていくんだけど…、そうやって、クオリティにケチつけ始める自分がいてさ、そういう風に、金払ってるんだから、なるべくすごい手紙が欲しいみたいに思い始める自分が…情けないし」と言いながら、素早くティッシュの脇の小袋を掴む。あ~~~、コンドームや~~と、冷静に思いながらも、花男のTシャツを掴む僕がいた。そして、告白した。その、Tシャツのうさぎ、僕が描いた、と。すんすん、とにおいを嗅いでいた君がビクッとして固まった。僕は、ちょっと整理しながら言った。そのTシャツは、施設に募金してくれた人に送ったもの、僕は施設にいて、年に一度Tシャツの絵を描いた。それで、僕は募金してくれた人に手紙を書いたことはないけど、まあ、おんなじようなものだと思う、と。君は、施設に募金してくれたのだろう。それで、僕なりの見解を話した。僕が手紙を書くなら、受け取り手が、まあ、そうやって情けない気持ちになられた方がいいかな…、と、遠慮がちに言った。驚いて目を見開いた君が、「なんで」と、今までのモテテクの流れ総無視して真面目に聞いてくる。だって、偽善じゃないって思いながら募金して、でも、偽善かもしれないよなって逡巡してる人の方が、信じられるよ、人の優しさは、もとから決まっているものなんじゃなくて、人に優しくしてみて、その時に動いてしまう心の動きで、育てられていくものなんだと思うから。君は、僕に偽善の気持ちで誘ったの?そういう気持ちも少しあるなら、嬉しい。僕は、そういう君の後ろめたさだって利用したいくらい、君のことかっこいいって思ってついてきちゃったからさ。なんと、僕から、キスをした。テクなんてわからない。迫りすぎて、君はベッドから落ちて床に転がった。「床が冷たい」という君。可愛い。戸惑う君でいてほしい。僕だって、明日にはたぶん違う人だ。人間には、そうやって、豹変する自由がある。名前に勝ったかな?と言いながら、床で君に覆いかぶさってキスすると、ユカにはさまれたよ、と言いながら、君が太ももを触ってくれる。芳しい。

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当たり前だけど、僕に足りないものを君が埋めてくれるように世の中がうまくできているようには思わない。だけど、君が僕の美味しいところを食べて、まさにこれが自分が欲しかったものだ、と思わせるのが、マーケティングなんだよ、と、グローバルエリートの君を上目遣いに見ながら思う。今までほしいと思ったこともないものでも、目の前につきつけられて、どうしてもほしいと思わせたなら、それは最初から決まっていたピースじゃなくったって、相手は欲しがる。まるでこれがなかったら何もできないといったように。僕は、君にとってそういう存在になってしまうだろうということが予知のようにわかった。君はたぶん、一夜、遊んだり、あるいは、経験のない僕をかわいそうだと思って、部屋に連れて行って添い寝できれば上出来で、いい思い出を作ってあげようとでもいう偽善だったかもしれないけど。ちなみに、僕の話したこと本当だと思う?と、ちょっと笑いながら聞いた。「うっそ…」と、君が青ざめる。本当だよ、君をちょっと違った君にするのが、僕の役目さ。

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たぶん、僕がうまく君を誘惑できたと思った部分は、まったく君には届いていないだろう。そして、君が僕に使ったテクも、僕にはほとんど効いていない。人は、自分が相手を落とせたと思っている魅力以外のところでこぼれ落ちた香りを捕まえて、人を好きになるのだろう。僕は君と始まるたどたどしい関係を予感して、でも、明日には会えなくてもいいという刹那的な気持ちになりながら、やっぱり花を結ぶのが僕の役目だったな、と、名前の不思議な役割に思いをはせる。

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なんたって、フローリングに寝そべる君は花のように良かったのだから。

 

(初出:2017.08 「便箋BL」)

horse

鈴は東京農大のニ年生で、馬の直腸検査をしていた。
蛙の解体にもびくともしない子供だったが、ふと、ご当地キャラクターのぐんまちゃんのクッキーを見て「こわい」と思ってしまい、以降拒食気味の日が続いたことがあった。一週間後にはけろりとしていたが、生物の授業を愛する一方で、動物を食べることへの小さな嫌悪感がぬぐえなかった。結局農大に入って胎盤研究のゼミに入るために課外活動をしているわけだが、最近はまた拒食気味になってきていた。

鈴は馬の直腸をぐにぐにと揉みながら、ふと、馬に私がコントロールされてるみたいだな、と思った。ふふふ、と笑うと、馬が、「そう」というのが、聞こえてしまった。驚いて危うく手を引っ込めそうになったが、急に引き抜いては後ろ足に蹴られる。直腸を通じて、馬が語りかけてきているようだった。「動くとぶつわよ」馬は鈴に言った。むしろぶたれたいような気持ちだった。

続く。

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