ドライでソリッド

これはドライな言い方かもしれないけど。

と付け足して、半年ほど関わったピアノパートのメンバーから私を外すことにTはした。

「ドライ…」

Tのいうドライさの手触りに違和感を覚えながら、話を聞いていた。

構成は良い。だけど、本質的な部分で合わない。他のサポートならもっとうまくやれるし、指示したことがない。言葉で伝えないといけないなら、合わないということ。合わない人とバンドは組まない。

内心あれこれ思考をこねくりまわしながらも、それを発言することでいい方向は行かないだろうなと直感した。

Tのいうドライさが、単純にステージを良いものにすることに繋がっているのか、または合わないやつを外していくということ自体がある種のいけにえのように何かを喜ばせているのかわからなかった。

バンドメンバーに合わないやつは必要ないという理論は、まるでバンドがバンドだけで成り立っているように私には聞こえて、バンドを舐めている発言にも聞こえた。やめていったサポートメンバーや合わなかった裏方がいたから彼が思う世界が実現しなかったと注釈したがっているようだ。自分に合うやつを残し、合わないやつとの会話をやめると、行き着く先は語彙不足だ。こういう理論を聞きに来たわけではなく具体的に進めていくやり方をしにスタジオに入った私はちょっと面食らっていた。音楽というのは文化で、言葉で伝えられるものではなく、今までも伝えたことはなく、言葉で進めていけないと。

Tが付け加えた言葉は、線引きかつあえて私のプライドのようなものを切り捨てることが全体のためになるというような自分を納得させるやり方のひとつ、癖のようなものなのかなと思った。

しかし、ある日、今までセンス一本でやって来たところに、言葉で組み上げていく経験を持たず、急に立ち行かなくなることもあるだろう。細かな粒度で会話を重ね、産み出していくものを経験していないとき、細い線に立っていた足元が既に線から遠く離れていることに気づくだろう。言葉というのは足だ。固い地面を作るのは、いつも伝わらないことを前提としながらも、言葉を重ねる力だ。

ドライさに言及させた彼のくちびるから、少しずつずれていく未來と選別をすることによる痛みを必要な犠牲だとする酔いしれを感じ、あらゆる言葉の積み重ねがチームとステージを作り、些末なものとの結び付きが今を組み上げていることを間近でみているようだった。

何がかれのくちびるをこんなにも渇かせ、固くさせたのだろう。その言葉はステージがバンドだけのものだというように、関わってきた人たちへの尊敬を捨て去る危うさがある。

それは信念と対立を起こしているように感じた。彼のほうが私の何百倍も音楽を愛しているだろうに。

では、サポートメンバーに多めに練習入ってもらってタイミングで私が抜けるように進めていこう、と話がまとまった。

渇いていると肌は傷つきやすい。湿度をあげるとイライラが鎮まる。

私を目の前にして、言葉でお前がいらない理由が話せないとわざわざ言われることの行き詰まり感。不器用さ、だな。ただ自分が違うジャンルの人間だということをあげつらわれるだけの会だったなとひとりごちた。

だけど、ソリッドな土はまず潤すところから。ソリッドには固いとかかっこいいとかいう以外にも「私は大丈夫」だという意味がある。

Tは自称ドライかも知れないけど、私は自称「アイアムソリッド」だ。積み重ねにいつも絶望し、観察し、粘ることができる。

もう練習をすることもないのかと思うと孤独で、分岐した道で自分だけ違う道に歩いていくようだった。彼らはあちらへ、私はこちらへ。

この分岐を寂しいとも思うけど、私にだって寂しさを味わう自由がある。投げ出されたように感じ、でも、自分の足で立てているようにも感じ、何かのせいにはできないところに来れていることがちょっとだけ嬉しい。

そういえばあのバンドのメンバーがmixi2で募集されてたな、と、携帯を開いた。指紋認証の瞬間、暗くなった画面の中に映る自分と目が合う。いつもムカついたときに頭の後ろに音楽が鳴る。この音楽と一緒にまた、行くぞという気持ちも高まり、怖さと嬉しさが生まれてくるのを感じていた。

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