婚後の話 1

◇籠の目

南富山行きの路面電車の窓に映る山々が雪を冠のようにして空との境界線をはっきりと分かち、私たちを見ていた。12月の空はすっきりと青く、東京よりも水分を含んだ空気にほっとする。私たちは富大で電車を降りた。新井五差路さんの歩幅が大きく、気づいたらずっと先にいて私を呼んでいた。「はやめに行かないと、雨が降ったらみれません」と、立山が見えなくなる心配をしてくれた。呉羽山の民芸村から頂上まで、まだあと15分はかかりそうだ。ここに来てから2日間晴れていることを、売薬資料館の籠を見ながら伝えると、「う~ん」と言って、金藤さんが来る1週間前はずっと雨でしたよ、と五差路さんは眉を下げた。

私は東京で夫が私に「あげた」という、籠を探していた。結婚する前に、確かにもらった気もするのだが、どうにも思い出せない。私は富山に仕事の用事もあることもあって、その、「籠」に似たものがありそうな民芸村に来た。正直、日常の中ではそんな些細なことは忘れている。しかし、富山に1週間行くという予定が立ったところで、急にその籠についてを思い出した。私たちはとても現代的な夫婦で、仕事では別々の苗字を使い、指輪などもいらず、つまりモダンな生活を志向した。ただ、名前や所有物については旧社会批判もあったが、「墓を守って行く」といったことについて、私はとても興味があった。それは歴史的、民俗学的な興味からであり、日々、手製の神棚に手を合わせて自身の心を安らがせていることによる、「習慣的な癒し」に後押しされた魅力であった。私も夫も、それぞれが自由だ。しかし、それは私達らしく無い、とても旧社会的なものの裏返しばかりを求めてしまうが故の振る舞いなのではないか?「籠」は、彼の曽祖母のものであったらしい。部屋の畳の中にあると、なんでも捨ててしまう彼でも、捨てることすら忘れてしまうくらいの自然な雰囲気で、ついに残しておいてしまったらしい。私たちはとても自由で、自立していて、だからこそ死んだ時にどちらの墓に入るか?といったような、避けては通れないはずの議論を、いつもし損なった。彼の家は何度か跡継ぎが途絶え、墓は分からず、一番古いものといえば籠だったそうだ。彼の、学校の先生をしていたという祖母の手先は器用で、手編みのベレー帽を見ると、ああ、こうやって昔籠を組んだ遺伝子が混じっているのかもしれない、と、思いを馳せることがあった。敬う気持ちと同時に、ある程度、触れてはいけないような、禁忌こそ感じた。人は恐れによって人を支配してはならないといったようなことが、おそらく「新しい社会」に生きる現代的先進的な人々に課されている。しかし、人間は、恐れているものについてを優先し、愛しているものについては簡単に壊してしまうような性質を持っている。人間という、身体的に見て脆いものが、代々守ってきたものを簡単に紛失していいわけがない。

私は結婚し、自由であるはずなのに、何かを恐れている。もらったはずの籠を、日常の中では紛失している。だから、せめて民族民芸村に来て、ああこういうものか、と見て、言い方を間違えてしまうかもしれないが、なんだこんなものかと諦めてしまいたい。夫が忙しくて、私は時間があった去年の冬の話だ。

呉羽山の頂上に登ると、立山連峰が視界に収まらないほどの大きさで目に飛び込んで来た。とたん、私は脳の中でキリキリと稜線を引いて行く。子供の時に鉛筆で写生をするようになってから、私は何かものが目に入ったら、即座に心で線を引いてしまう。木にも、雲にも、山にも。境界線を強い線でひいたら、反対側はぼかし、立体感を出していく。そうやって、画面の中の材質の違いを強調するのだ。よく見て、形をとらえ、画面の中で再構成する。脳写生は私の癖であり、習慣だった。量感を、線で構成していく。全く違うものが隣り合った時には、はっきりとキワを描く。きっちりとキワを目立たせる時は、こことそこは違うものであるのだと警戒するような気分で、清々しかった。

五差路さんが、普段は富山で山を見てもそこまで感動しないけど、これは、さすがにすごいですねと笑顔だった。私は普段山を見ないので、その倍感動した。その後、途中で配布されていた、様々な民芸品の載った民芸村のパンフレットを読みながら歩いていると、五差路さんが降りて行く道の脇に、「大仏」と書かれた木の看板を見つけた。

どうしてこんなところにと二人で顔を見合わせたが、せっかくなので階段を降り、民家の庭にある、6mはあろうかという個人蔵の大仏を見た。この大仏が、ただ、民家に迫らんばかりの迫力で立っている事実はもちろん、大仏が水平に首をひねってやや右に向いているのが気になった。体と顔が違う向きを向いている。そして、その目線のところに、民家の2階のバルコニーがあり、そこに、40cmほどの目籠があって、私は飛び上がった。「五差路さん、目籠が」と言って、振り向くと、そこには五差路さんの半分ほどの背丈の小鬼が立って居た。

驚きすぎて声が出なかった。しかし、相手は人間でない分、間違いなく恐れることができると言う安心感が同時にあった。奇妙な感覚だった。人は何かを畏怖する時、初めてみずみずしい美しさを手に入れると思う。そして、恐れることで、自身と自身以外の境界線をくっきりと描かせる。もっと、私たちは違うのだという、わかりやすさが、生活の中にもあればいいのに。怖い!と恐れることのできる、小鬼を見続けた私は、「あっ」と思い出して、手に持っていたパンフレットの籠のページを小鬼に見せた。。小鬼はワッと慌てふためいて、ぼやけて消えた。いつだって、相手との立場は交渉が決める。怖いものに対してでもそうだ。そのみずみずしさを、私は失っていたのだと思った。勝ったような負けたような。ともかく、籠を見せてみてよかった。

籠の吊られた民家のチャイムを鳴らした。私は民俗学の学生で、二階に吊った籠を玄関に吊った方がいいということを女性に伝えた。ああ、久しぶりのいい天気だから、吊っていた目籠を玄関に下げるのを忘れていましたよ、と返され、ふふふと笑われた。女性は今焼いたのだからといって、鰯を私によこし、カゴを玄関に下げた。私は駅で買った吉乃友を女性に渡し、もう一度観音様に手を合わせた。

小鬼はすでにいなくなり、五差路さんが観音を撮っていた。「あの目籠の場所が違ったそうです。」と伝え、あの目籠が、夫のものであるかを考えた。違うけれど、何かが正しい場所にあるということが、私たちの姿勢を見えやすくしてくれると思った。目籠は一種の魔除けで、多くの目で見られては、鬼が恐れて近づかないのだそうだ。

夕方、五差路さんと別れ、夫に電話をした。夫はすぐに出て、籠がシンクの下の戸棚にあったと教えてくれた。そんな湿った場所においてしまっては、どうりで湿っぽいやつが近づいてきてしまうわけだと笑って、彼に、お墓まいりについて、今度お義父さんに聞いてみよう、と尋ねた。お墓について、聞いていい人と、聞いて答えがない人が混ざる家族だが、そういうこともある。お墓はきっとどこかにあるのだ。籠が私たちの手元にあったように。お彼岸じゃなくても、聞いて見るという行動が、墓参りに一つ近づく作法であろう。

どこに行ったって誰かとの距離や目が気になっていたのに、今は私の体にも、皮膚を突き破って生えた目がたくさんあるようだった。いや、怖いことをいいたいのではない。自分の中に客観性を持っておくという話だ。自分に目が二つしかないなんていつ決めたんだろう。もっとはやく、この沢山の可能性に気づけばよかった。これからは、もっと冷静に、真摯に、生きていけるだろう。籠の目が私を見守り、可変する私に輪郭を与えてくれるだろうと、籠の効能を勝手に決めた。

 

 

写真提供:新井五差路

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