reconsideration_taming

KINTO MINAMI’s the Taming of the Shrew

2019年7月18日にカオス*ラウンジの「芸術動画」にて講評をしていただきました。

  • ビデオ作品の踏み込みが甘い
  • ステイトメントがとっちらかってる

主にこの2点が重要だったと思います。

他の方の講評も大変参考になり、気になる作家さんとの出会いもありました。

  • 作品はまず衝動で作ってもよい
  • 作った後にゆっくり考えたり言葉にしてもよい
  • 作品を作った後によく考える時間をとり、次の作品へ

このあたりも、本当にそうだな、と思いました。
実際、会場では長いステイトメントは用意していなかったのですが、作品を再度考えるために、少しまた文章を書いて見ました。また何度か考え直してみたい作品です。

「金藤みなみのじゃじゃ馬ならし」

(シェイクスピアの)じゃじゃ馬ならしは劇中劇の構成をとる演劇ですが、劇中劇の外側の話に戻らずに話が終わります。まるで、現実から夢に移行し、夢から現実に戻らずに閉幕してしまったような構成です。私は、劇中劇のカテリーナが、男性が眼差す夢であるだけではなく、あらゆる性の眼差しの先にある夢にもなっていたのではないかと再解釈しました。視覚に自覚的になることで、視覚によって一方的に構築されてきた支配関係を「鬼ごっこ」のように、役割の交換可能性のあるものに組み換えました。

冒頭、顔を隠した人の顔を布越しに手で探るように確かめるシーンがあります。ある人(おそらく妹のビアンカ)がポエティックに「ねえ、お姉様、可愛いって気持ちは何かしら」と可愛さについて問いかける字幕が流れ、可愛さの定義が進むうちに、顔を隠した登場人物たちが、布をとりあって追いかけあう鬼ごっこへと発展します。散乱した布を片付け、その布を結んでやる者がいるなかでも、前は見えないまま、森の中へと皆で歩いていき、エンドロールが流れ映像は終わります。
不均衡な状況を、布で包むことによって(しいては皆で不都合をつかみとることによって)より根元的な欲望やエロスに従事させることは、私にとって、アイロニーを含みつつも、真に公平で美しくロマンチックに感じるものなのかもしれません。

2019年7月17日(木)


小説 「金藤みなみじゃじゃ馬ならし」について。

劇中劇のカテリーナが、男性の夢であるだけではなく、俳優ファンの女性たちの夢にもなっていたのではないか、ということを、ファンの冷静かつ過剰な純愛によって描きました。

じゃじゃ馬であるカテリーナは、結末に向かって男性の夢である理想的な女性へと変身していきます。なぜ、カテリーナが男性の夢そのものになるように駆り立てられたのでしょうか。「可愛い」と言われたいからです。「可愛い」と言われたいがために、男性の夢そのものになるように駆り立てられるのです。私は、カテリーナのようなポジションになる危険性を持っているので、男性の夢になりたがる気持ちがよくわかります。このような気持ちは、俳優であれば誰もが持つかもしれず、ファンを魅了するために、鑑賞者の夢であろうとします。この構造は、そもそも演劇という形式から逃れられないものです。鑑賞者の夢である演劇を「終わらせないまま」閉幕させたこの作品に対して、劇の外の人間たちが絡み合い過剰な程に激しい愛を持ち、見ることの欲望に自覚的であるように描きました。ビデオと同じく、主従関係を理不尽なほどにフラットにすることを考えていました。

2019年7月17日(木)
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