天然パーマは「今は」表現だけど、小さい頃はそうじゃなかった

私は生まれつき、髪型に癖がある。

小学生の頃というのは、マイノリティ差別が激しかった。同年代の子たちからの目線を気にしていた。縮毛矯正も欠かせなかった。

30才になってやっと、「天然パーマっていいね」という言葉を素直に受け入れられるようになった。見た目は一つの表現だと受け入れられた。髪型は自分で選ぶことが出来る以上、表現になるのだ。

いじっていた側が自由の象徴として褒めてくる

『凪のお暇』というドラマを挙げて、「天然パーマって新しい時代の自由の象徴だね、かわいいよね」と、私に伝えた人を見て、私は結構驚いた。

「お前、天然パーマいじってた側やん」と。

私は子供の頃は、髪型を自分で変えることはできなかった。それは、子供であるがゆえの「選べなさ」だった。まっすぐが正しいと思っていた。だから、あの時の天然パーマは「表現ではない」。

キャラクターと髪型

キャラクターの髪型は、キャラクターの性格や心象を表すものとして広く用いられている。しかし、私はキャラクターではないので、私の髪型は性格を表していないし、ましてや心象も表していない。

「天然パーマは自由の象徴だね」

ということを、『凪のお暇』という作品の凪について言うのならわかる。

「天然パーマは、揺れる心を表しているんだね」

ということを、『弱虫ペダル』という作品の手嶋について言うのならわかる。

天然パーマは虚構の中では心象表現に有効だ。でも、私の髪型は、新しい時代の自由の象徴ではなく、単純に私のものだ。私は象徴になりたくない。

許可制の自由

私の髪型は、たまたま、巻き毛で、縮毛矯正にこだわらなくなっただけだ。矯正しなければならない、という強迫観念を捨てただけだ。

「強迫観念を捨てた」として扱われる「自由」ならいい。

でも、マジョリティのための「自由」にはなりたくない

マイノリティとして扱い、許可証を求めてきたくせに、今度は自由の象徴だと持ち上げられて、信じることは出来ない。 今、「自由の象徴」という風に褒めても、きっとすぐに、マジョリティ側は飽きるだろうと思っている。

私は、マジョリティ側のための「自由」にはなりたくなくて、「私のために自由」がいいなと思っている。

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