削ぎ落とさないほうが、シンプルな態度が見えてくるということ|田中功起個展 共にいることの可能性、その試み

水戸芸術館は少し遠い、その遠さと共同作業を考えることの距離

f:id:goldenmilk:20160403193000j:plain

「共同作業」についての試みを他方向から見せる演出。

6日間の宿泊に参加した参加者と、アーティストと、アーティストの呼んだファシリテーターや映像作家のコラボレーションをもとに、アーティストの過去作品を挟みつつ鑑賞することができる、ビデオ・インスタレーション。

例えばみんなで料理を作ったり、例えば働き方について語り合ったり。

f:id:goldenmilk:20160403201606j:plain

外界と切り離されて集合した共同体と、水戸へと長い時間をかけて見に来た鑑賞者の感覚が、わずかにリンクする。私は友人のアーティストとともに宇都宮から車できた。「高校生ウィーク」というイベントで無料のカフェがあって、展示を半分見てからカフェで話し、また全部をまわってからまたカフェで討論することができて、充実した時間だった。

大きな会場内に、「アーティスト・ノート」「キュレーター・ノート」(大きな本のページのようにも見える)がガイドの様に張り出され、行われた実験の内容や状況、感想などがぽつぽつと綴られる。

空間デザインのセンスと説得力

f:id:goldenmilk:20160403192755j:plain

蛍光灯の光が空間を大きくしている。

大きな写真とそこにある現実の椅子の線が、様々な人がダイナミックに動く導線を作っている。疾走感、とどまって大きくなる線、線。観客は大きな紙(アーティストノート、キュレーターノート)と、話しながらも編集されているかたちを楽しんでいる

(平塚らいてふの本を持たせて、監視員を参加させ、鑑賞者のアクションに自由度を持たせるオノヨーコをもう少し民主主義に則ってていねいにやっている感じがする。)

「皆で作る事」と「失敗」という共感

切り取った時に「絵になる」という説得力をもたせてはいるが、あくまで「共同作業」を行う時のモヤモヤを扱っているという主題の見せ方がキャッチー。あまりに美しいので、美大生の中で流行ってしまいそう。けど、この見せ方はとても難しい。ちょっと特殊なことをやっているし、微妙な、奇妙なバランスで成り立っていることのように見える。

例えば、話し合いについて、「アーティストとしての自分の至らなさで、最後まで話し合うことができなかった」ということを綴る。また、残業によってキュレーターの育児に支障がでることを気にしたというような、「作品に関わる人々の生活」にまでも、目を向けているが、そのことでとっちらかったりしない、自由だが制御されている空間がある。

日本には共同作業が苦手な人が多いのではないか

私は、ピンとこないことを言っている人の話はほとんど聞かないし、好きな人のそばにいるように心がけている。そして、共同作業が苦手である。しかしそれは日本では一般的な意見なのではないだろうか。日本人は支え合い共同作業をするのが得意なイメージを何かしらから与えられているが、この展示を見て、モヤモヤとしている一人一人の主張に深く納得できるのは、 共同作業が必ずしも平等であるわけではなく、多くの否定をはらみ、心底疲れる仕事であるからに他ならない。しかし、私たちは民主主義の世界にいきている。

削ぎ落とさないほうが、シンプルな態度が見えてくるということ

一つの主題について言おうとして、その周辺にあるものについては大体そぎ落とした方が美しい。

しかし、この展示の場合は周辺にある瑣末で繊細な事象をきちんと入れ込んだほうが(つまり共同作業をしている様々な人々のあらゆる意見を入れ込んでいるほうが)、シンプルに問題を考えられるように作られている。これは本当にすごい発見であり、シンプルにしたほうがシンプルになるのではなく、まとめて話し合おう、しかも話し合うことで見逃すこともあるだろうというような、全く矛盾する試みを全部とにかく出し続けることで、民主主義やっている人々のありかたをトータルで問うような、シンプルな態度に見えてくる。何かを選びとったり、排除していかなければ停滞するという現実を見つめながらも、展示全体としては、左から入場すれば田中氏の全仕事についてを知りつつも今回の6日間の宿泊についてはバラバラに明かされていき、右から入場すれば6日間についてはきちんと語られてから見ていきつつ、だんだんと田中氏の代表作へと収束していく。全てが必然であるように見えてくる。しかしまた、その全てがバラバラに見えてくる。

水戸芸術館|美術|田中功起 共にいることの可能性、その試み

2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

ちなみに、土屋紳一作品について。

カセットテープの中身についてここまで仔細に書いておいて、中身を聞かせない、強い。

【映画 Banksy does NY】私たちは出来すぎた「偶然の街」で踊る!

www.youtube.com

覆面画家Banksy

f:id:goldenmilk:20160422153043j:plain

Banksy を知っているだろうか。

Londonを中心に活躍する覆面画家で、1人ともチームともいわれている。

その活動は壁へのグラフィティだけにとどまらず、該当ディスプレイ、美術館の中に無許可で展示するなど社会風刺的・芸術テロリズムともとれる作品が多い。この映画は、そんなバンク氏―のNYでの一か月にわたるstreet actionと、それらを取り巻くファン・住民・一攫千金を狙う泥棒・警察・メディアを大いに巻き込んだスリリングなドキュメンタリー、という風にしているが、その実、「かっこよさ」によって大衆向けの広告となってしまっている。
ミュージカルのように彼らの行動に大義名分をつけてしまっている様子は、本当に彼らがやりたい自由さとは遠く離れているように見えた。

マンハッタンを駆け巡る思惑

公式ウェブサイトより

2013年10月1日、バンクシーがニューヨークで展示をスタートさせた。 告知もなく突然始まったその展示は、毎日1点ニューヨーク各地の路上に作品を残し、場所を明かさず公式サイトに投稿。人々はその作品を求めてニューヨーク中を駆け回るという、ストリートとインターネット上の両方で勃発した「宝探し競争」だった。

映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』公式サイト

マンハッタン独特の賑やかさ・商業主義・格差と性の匂いと、バンクシーの仕掛けた遊びの掛け合わせの面白さだけでなく、バーチャルな街の中に宝が毎日浮かび上がるのを見つけようと駆け巡る興奮を味わうことになるだろう。

以下ネタバレ

非常にアメリカンな作りで、ファンと批判者、ブローカーとディーラーと一攫千金を夢見る人々がうごめきながら作品の疾走感を形作っている。

ドイツなら扇動罪とかなんとか理由付けて捕まりそうだが、アメリカはあくまで現行犯逮捕(器物破損)にこだわるだろうから、警察に捕まってしまうのかそうでないのかという基準が明確で、見つかったらどうしようというスリルもある。

 

一攫千金をねらってゴミ山をスフィンクスを盗む自動車整備士たち

一番印象的だったのは、明らかにゴミの山にしか見えないスフィンクス。Banksyはフットワークの軽さや風刺の評価以上に、「Designとしてのかっこよさ」「ビジュアルの良さ」が、多くの人々を魅了している。しかし、スフィンクスははっきり言ってただ汚いコンクリートをかき集めただけにしか見えない。

しかし、ここマンハッタンの資本主義は、「自分にはクソ以下にしか見えないモノでも、オークションにかけて一攫千金をゲットできるなら、なんとかして手に入れたい!」と人に思わせる力がある。案の定、整備士たちは「自分には価値はわからないけど、身なりのいいやつらがやってきて写真を撮り始めたから、これは売れると思った!」という。彼らが商業施設建設の為に職をなくすというのも、この一攫千金ストーリーにお涙頂戴シーンを連想させる。しかし、そうはうまくいかない。

水はけが悪く、雨がふって何日も水たまりが渇かない中に汚く積まれたコンクリや石でできたスフィンクスをギャラリーと組んでアートフェアに出すものの、売れない。バンクシーを扱うギャラリーが、前のシーンで「ブローカーから入手している」「banksyの価値を上げているのは我々だ」「banksyは感謝しているだろう」と笑顔で語っているのもむなしい。このすべてが、広告につながっているということも。

 

露天販売 では60$、オークションなら25万$

面白かったアイディアのひとつに、人を雇って露天販売で小さなキャンバスにbanksyが描いたものを売った時。ぱっと見には、贋作を格安で売っているようにしか見えないわけだ。

買ったのは、半額に値切ったおばさんとおばあさんと、新築に飾る作品がほしいと思ってと言っていたお兄さんだけ。他は見向きもしない。このお兄さん、4枚も買っていた。推定100万$ゲットである。是非これからも自分の目を信じていきていってほしい。ちなみに、顔出ししてしまっていたので、おうちを泥棒に襲撃されないように、セキュリティには気を付けてほしい。

露天を店じまいしてからbanksyはこの情報をインターネットにアップした。多くの美術関係者が悔しがったという。

この場所は誰のもの

そして、貧困街にbanksyが描いたグラフィティを見に来た美術関係者から5$ずつとろうとする住民も面白かった。しかも払うひといるし。住民曰く、「おまえらはここにこの絵が無かったら来なかっただろう。」という。確かに、美術関係者はここに来ることはなかっただろう。貧困格差についても考えさせられるのである。

あ、あとArt オブザーバーがbanksy批判してたのも面白かったな。毎日現代美術批評のせてるのに。

本当の自由と踊り

このように、人々が毎日町中banksyの作品を探し回っている様子は演劇的だし、アーティストが持つ、ネガティブに見れば「banksyに踊らされている」し、ポジティブに見れば「アーティストの本質は人を熱中させて踊らせることだ」と思い起こさせてくれる。

日本でも、寺山修司が30時間市外劇「ノック」という劇を行ったことがある。

俳優が、劇を日常原則のなかに持ち込んでゆく「戸別訪問演劇」の形式、見知らぬ人から台詞が配達されて、そのト書き通りに行動してゆくと、いつのまにか新しい人間関係にまきこまれてしまう「書簡演劇」。ー「ノック」p82

寺山たちが一メートル四方一時間国家を作ったように、banksyは時間と場所を自由に練り上げ、我々を躍らせてくれたが、結局は大衆に巨大な広告を打って、彼ら自身の本当の自由・批評性をほったらかしにしているように見える。

彼らが、この映画とは遠く離れたところで、全く違った批評性をもったアクションを行うこと・我々が自由に気づき、踊り始めることが求められている。

Scroll to top