death line

追記

2017.3.8

このツイートで3月7日に書いた文章についてが

ループ構造の展覧会。最初に展覧会会場図が配られる。

最初(一周目)は、「作家による解説を受けない」という構成である。

一周目ひとつめでは、小林Aのインスタレーションの狭さがちょうどよくて心地いい。スーツの男性は火葬場の人間かと思ったが、三周目(正しくは二周目。私が勝手に二周してしまったので、三週目になっているだけです)で作家から説明がある。

ふたつめの部屋がストローク重視の作品だとすると、ひとつめの部屋はイコン的ですね、という話を小林として、そうだね、という会話をした。

ふたつめの部屋は、三つの作家の作品が向かい合っている。

私は小林の作品を見て、「後ろ髪をひかれるような引力のある絵ですね」と言った。個展でも発表していた旧作で、当時は事故に関することを言及していなかったが、私から見ると事故の作品にしか見えなかった。そして、弓指はこの絵を「隠しているような絵」で、気になり、背景を聞いたという。

 

この展覧会では、三者が役割を与えられていることが
解説によって強調される。そうやって見ると、私にはこの会場の主人公は
三者ではなく、あいだにたたずむ「満たされない魂」であるように見える。

能は、満たされない魂が主軸であり主役として据えられている。
そして、満たされない魂は、社会的なものを描くときに有効である。

しかし、そのように見てしまうと、今度は絵がかき割りに見えてしまう。

なので、鑑賞者は都度、意識をスイッチさせながら作品を見ることになる。

 

展覧会史を念頭に置いて見る

では、そのようにスイッチさせながら見ることが当然という風になったのはいつからか。

例えば、作家がDMなどを外注するとき、そこに作家の意思はないのかというと、確実に意思があるだろう。絵を描いている作家であっても、空間を意識して作品を作成するようであるべきだというのは、もちろん現在生きる作家にとっては自明であるが、展覧会そのものを構成することにまで意識がいったのは、本当に歴史的に新しいことなのだ。現代は、どこまでも意識が拡張されてしまう。そのことを利用するもよし、雑然とした部分は切り捨てるもよし、「当然隅々にまで作家が意識を向ける展覧会」が当然だと思い込んでいると、その可能性に気付けなくなってしまう。

 

 

閑話休題。リアリティについて。

いうまでもないことだけど、リアリティが大事。

だけど、そのリアリティがたまたま事故であるだけだったと見える。

それくらい、3人ともの表現スタイルに変化はないように見える。

 

事故があったから事故について向き合えるのではない。

彼らには彼らのスタイルとしての美術があり、その美術にリアリティがあったから、事故を描くことによって物語が紡げるのだ。

 

会場構成と社会性について。

満たされない魂という主役が、この会場を浮遊しているように見ると、その主役は当然社会がつくっているものなので、シビアに社会について問う展覧会だといえるのである。

 

 

筆致について。

ちょっとひいてみるには、筆致から語るのがいいと思う。弓指は、事故があろうがなかろうが、

この画風だったんだろうと思う。輪郭をペンで描くような、色にちょっとがさつさを感じさせるようなスタイル。不透明着色なので、層が重ねられた絵には見えない。かならず輪郭がある。立体感はない。こんなに描いているのにずっと下手なまま自分の持ち味に変えてしまっている感じは、少年ジャンプでは切られてしまうが、少年チャンピオンで輝きを発揮するタイプの漫画家のような感じだ。

そして、漫画のような時間性が入っている。

ALIKAの詩について

で、ALIKAは絶対に詩がいい。

そして、本というスタイルで閉じたい気持ちもわかる。
その繊細さも魅力ではある。

でも、鑑賞者は、開かれたスタイルで展示してあっても、この会場構成であれば、真摯に見てくれるし、見られるべき魅力をもった詩だと思った。

きちんと額装してみたり、壁にどーんと絵の具でかいたりしたほうがよかったんじゃないか。朗読するとか。

 

解説について

解説を暴力だととらえるか、パッケージングされたひとつのパフォーマンスだととらえるかで、また見方が変わると思う。

 

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