上妻さんの講義「思弁的美学入門」は、その最初のスライドのデザインから始まり、講義後の交流会も
一貫して受講生の想像力を刺激し、対話をそこここで頻発させるように仕組まれている。
Under the gaze of theory の上妻さん試訳
私は論文を読みなれていないので、とても苦戦するかと思ったが、ボリス・グロイスの文を訳したものは
とてもとっつきやすく、「これをたたき台に」語ることは、その人が今向き合っているものをうまく浮き彫りにしてくれて、
交流会でも話しやすかった。
というか、受講生の仕事や肩書が幅広い。建築、鑑賞、アーティスト、近現代美術、現代演劇、写真、編集、文芸、etc…
現状、小さなアート展示などではアート関係者しか来ないというような問題が指摘されがちなので、
これだけの多ジャンルの人々が集まる空間というのが面白いなと感じる。フットワークが軽い人が多い。
あと、場所がいい。太加丸くんは本当にすごい。素晴らしい資材を、また、人柄によって入手していた。
何を作っても何かにカテゴリーされることについて
これは、2013年に
パフォーマンスの未分類 という修士論文の中で、分類やジャンル分けと「わかる」ということについて書いていたので、
懐かしいとともに、再度取り組みたい領域だという気付きがあった。
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5,パフォーマンスのジャンル破壊 アートにおいては、「いったいこれはどのようなジャンルか?」という問題がある。作家 は、作品名・サイズ・技法や素材と同等に、「建築か、絵画か、彫刻か?」を明らかにす る。 パフォーマンスをジャンルづける時に、必ず意識しなければ成らないことは、まず、”パ フォーマンス”そのものが表現形態の区分を破壊させてしまっている事だ。”20世紀初頭から 30年代における芸術活動は、パフォーマンスから開始されたという主張がゴールドバーグ に一貫する論旨であり、最新版の序文においても、パフォーマンスこそが既存の表現形態の 区分を破壊し、新たな方向性を指し示す「前-前衛(avant avant garde)」的活動であっ たと述べられている(※7)。パフォーマンスは、そもそもジャンルを破壊する事によって 生まれた代物である。しかし、パフォーマンスは、それでも鑑賞者から”見られ”ることに よって成立するのだから、”見られ”る為にあらゆる手段を使う。だから、”そのまま”見られ ることは無く、必ず何かの枠組みに区分けされることによって、”見られ”、成立する。ジャ ンルを崩壊させておきながらも、ジャンルを必要とする。パフォーマンスは分類を取り払っ たのではなく、新たな視点を用意したのだ。つまり、”分け”られないジャンルとして、”見 る”ことの自由を、鑑賞者に提示したのである。
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以下、よりメモ的な自分の為のメモ
- 理論はプロパガンダや広告
- 理論は美術をオリエンタリズムから解放する
- 他者のまなざしのもとに体を動かす
- (内在的読解をし、いったん受け入れる事)
- 分からないものなど作れない
- キリストとレディメイド