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2018年3月29日

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◇橙の花の習慣

朝起きて、2分間プランクをする。プランクというのは、腕を動かさず、腕立て伏せの姿勢を保つような、ある程度簡易な筋肉トレーニングだった。私はこの習慣を、2015年から欠かさずにいた。

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夫が、「俺も筋トレしようかな」と言った。これは私にとって衝撃だった。なぜなら、彼は「筋トレをなるべくしないように日々努力している」と豪語し、友人たちとの突発的な腕相撲トーナメントで清々しく最下位を取った男だからだ。「ツイッターを見たんでしょ」と私が言うと、あからさまに驚き、なぜ知ってるの、と言う。私は、フリーランスに筋トレを勧めるツイートを昨夜見て知っていた。「煙草をやめるツイートも、誰かしてくれないかなあ」と、軽く呟いた。誰かにやめろって直接言われても止めないだろうけど、ツイートを見たらやめてしまうかもしれない、と、夫は変な顔をして言った。そして、オレンジの花が描かれた、60cm程の高さのまん丸とした花瓶から、タバコを取り出して、私たちのバルコニーに行って火をつけた。バルコニー。ここに、人口芝でも植えてみようかと血迷って金額を叩き出したこともあったけど、1週間ほどして、そんなことを考えていることも忘れてしまった。それよりも、朝は簡単にストレッチをして、簡単なお粥と納豆を食べて、とっとと出かけてしまった方がいい。

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出かけた先の竹橋は、桜も桃も観光客を満開の花びらで出迎えていた。近代美術館の年間パスポートを2年前にもらっていたのに、使わないままここまで来てしまった。パスポートを見せ、「来年の3月末まで有効です」と言われ、3月1日に来ても3月31日に来ても、3月末まで有効であることに気づく。しまった、と思った。しかし、ポイントカード等を持つのをすっかりやめて、そのことですっきりした気持ちになっていたので、思い直して、30日くらいのことでがたがた言うのはやめよう、と考え直した。

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しかし、30日あれば、人は習慣を作ることができる。簡易なストレッチも、朝起きる時間も、30日間どうにか続けられれば、逆に依存して、抜け出せなくなるのだ。家にある橙色の花が描かれた白い壺も、また、夫がなんでもなげこめるように持っているものだった。あれはどこにいった、これはどこにいったと探さずに済むように、鍵と煙草はこの壺へ、と習慣化させていっていた。この壺は、実は一度金継ぎしてあって、割ったのは作者の私の友人だった。美大の工芸棟で、金継ぎされてあるこの壺を見て、「これ、いいね」と言うと、友人は笑って、「練習だけどあげるよ」と、プチプチと段ボールに包んでくれた。これは良いね、と、ちょっと良いと思ったら言う癖も、私は人生が生きやすいように習慣化したものだった。だって、良いものをなるべく良いと言うようにしていたら、私にもいつか「いいね」と言ってくれる人が現れ、その人数が増えるかもしれないんだもの。なんにせよ、私は優しい感じのもの、暖かい色のものを褒めるような癖を、日常に落とし込んでいた。

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あの壺の釉薬の色、廃盤になっちゃったんだよ、と、有楽町の駅ビルに入っているカフェで、「壺の作者」の友人が呟いた。しばらくぶりにあった彼女と、彼女の0歳6ヶ月の娘の、鼻や口元が似ていることを何度も確かめて不思議な気持ちになる。彼女はきな粉をミルクティーに入れるのが好きで、なるべく季節に合わせた特別なお茶を飲むことが好きだった。私は彼女のそう言うところがいいと思っていた。千葉から赤子を連れて電車をのりついだ友人は、甘いお茶に飢えていた。洗濯機をいくら回しても終わらないことや、新作のイチゴパフェを食べられなかったといった日常の話と、好きな漫画の話をひとしきりしたあと、再度制作の話に戻る。

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作品作りに、ここまで習慣が有効だったなんて思ってもなかったよ、と、何かに気づいたような、ひたすら諦めたようなトーンで、語る彼女の毛が、明るいカフェの中でふわふわとそよぐ。私は、ほとんど1日置きくらいに、彼女と連絡をとっていた。私は突然連絡を途絶えさせてしまうことがよくある、自分の性格について、何度も悩んでいた。しかし、彼女に、連絡途絶えさせるくらい何よ、いつだって、突然縁を切るみたいに勘違いするのは相手なんだから、あんたはあんたがしたことに、勘違いをせずに、縁を切ったんじゃなくてボリュームを下げたのよくらいの心構えでいなさい。自分を自分で取り違えちゃだめよ、と、砂糖を30回くらい入れたようにざらざらとしたコーヒーをすすりながら言っていた。巷では糖質制限が流行っていたし、白色の砂糖は中毒性が高いから気をつけなくてはいけないよ、と、私が三温糖をすすめると、何よ、下の毛が抜きにくくなるじゃ無い、と、ゲラゲラと笑った。彼女は白砂糖とレモンを使って、アンダーヘアの処理を自分でしているのだった。どんなことも、自分の手で作るのよ、習慣は、思い切り向き合うんじゃなくて、なるべく視界に入るくらいの距離に、やりたいことを置いておくといいわ、と、教えてくれた。

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いつだって、生きていくために必要なものは、そんなに多く無い。お家の中で何かがどこかへ行ってしまったって、案外必要じゃなかった、みたいなことだってある。帰宅して、春の突然の暑さにボーッとしてしまって、水筒の水を飲んで、寝転がって、一息ついた。それから靴下だけを着替えて、玄関に行って、もう売られていないという釉薬で暖かく着彩された壺を見る。なんて美しい、やさしい形。どうしたって必要な鍵と、彼にとっては煙草とを、壺から出して、横に置く。それから帰りがけに買ったベルフラワーを植え替える。なんて可愛い花。壺を抱きかかえて、畳の部屋に置いたり、机の上に置いたりして眺め、写真を撮った。なるべく視界に入るくらいの距離に置いておくべき、私が大切にしたい形っていうのは、こういう形で、この形のようなものを、生活に落とし込んで生きたいんだ。それは、無くしてしまった何かを探している時間とは対極の考え方のように思える。なんでも無い、雑な私の日常の中で、あれこれ工夫して撮影した写真が、私の人生はこのような美しいものでもあるのだ、と、誰かに褒められているようでくすぐったい。思い返せば、私はこの壺に、やっぱり、今、いいな、と思うものをどうしても植えたかったのだ。

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彼が大事なものをなくさないように、この橙色の花の壺以外に、何か箱を用意してあげよう。例えば菓子箱のような。みんなが嫌厭する、白砂糖たっぷりのクッキーの缶を。マンダリンを入れて、ゆっくり一息つこう、と思うのだった。

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