balcony

ベランダ
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いつか新品の部屋に住もう、という夢が、僕の心を豊かにしてくれていた。
夢はいつも胸の中で光る。小さいころ、いつも芸能人の部屋を紹介するテレビで、彼らのこだわりや間取り、リビングの広さや吹き抜けの気持ち良さを見ると、住処というものを愛することは人生そのものなんじゃないかと思えた。14歳の時、1ヶ月くらいオーストラリアにホームステイしたら、バルコニーのバラが綺麗で、いつか小さくてもマンションでもいいから、自分だけの家を持って、ベランダにバラを咲かせたいと想像したのだった。
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「なおみ」
と、ワゴン車の助手席から、後ろに乗っている僕に、父さんが声をかける。僕は直文という名前だが、父さんはなおみと呼ぶ。土曜日の朝だった。18歳になった僕は大学一年生で、ありきたりな五月病にかかりつつ、毎日眠くて今日も引っ張り出されたのがイヤだったので、ちょっと舌打ちしながら、何、と聞くと、「ほら、家」と言われる。右手に、ボロ家が見えた。外壁が白く塗り替えられたようだ。運転席のデンさんが、おお、と感心したように声を出す。デンさんは父さんの親友で、建築の仕事をしており、ガッシリ引き締まっている。「トビなの?」と僕が聞くと、トビやってたけど腰をダメにしたひと、と言ってヘラヘラ笑った。ボロ家は今日から住むわけではなく、父さんとデンさんと誰か父さんの友達たちとコツコツリフォームして住むと言う。父さんもデンさんももう50歳になるのに、こういう学生っぽいことが好きだ。リフォームだって金かかるのに、と、僕は文句を言いながら、車を降りた。ここに来るのはもう3回目だが、自分がこのボロに住むつもりは毛頭なく、今日も2階のベランダでタバコでも吸っていよう、と心に決めていた。このベランダは6畳ほどあり、なかなか広くて、下を見ると草がぼうぼうに茂っていた。デンさんが工具品で有名なマキタの掃除機を一階でかけている音が聞こえた。ベランダでうつぶせになって、チラチラ見えるデンさんを上から見ていると、草でぼうぼうになった庭にデンさんが入っていって、60cmくらいの太さの木に何か細い紐のようなものを巻きつけていた。ぐいぐいと巻いて、しめ縄のようにしたら、デンさんは木に手を合わせた。なんだか神聖な様子を盗み見てしまったような気持ちになった。
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僕には特定の信仰なんてないけど、手を合わせるとすっと心が晴れるような気持ちはわかる。あんな小さい木に神なんて宿ってないだろ、と、普段の僕なら言ってしまうかもしれないけど、高いところから見たデンさんの行為には、不思議とほっとするような、人を勇気づける力があった。じっと眺めていたら、急にデンさんが振り返って、僕を見た。カッと顔が熱くなって、目をそらす。やる気もないのに、来いと言われたら断りきれず、ぶつくさ言って、2階でダラダラしてる自分が恥ずかしいと思った。
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1階に降りていくと、父さんがマキタのコーヒーメーカーでコーヒーを入れていた。あちあちのコーヒーをすすっていると、ギュイーンというけたたましい音がして、僕は庭を見に行った。そこでは、軍手でペリカンばさみを持って、庭の木を剪定しているデンさんがいた。横手にはデカイ草刈り機と草の山があって…木でできたフェンスとアーチが倒れていた。これは、昔オーストラリアで見たような、バラの為のアーチだろうか、ツルがカピカピになってアーチを取り巻いていた。ツルのあるバラが生えていたのかもしれない。なんだかちょっと悲しい気持ちになって、倒れているアーチに近寄った。
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「隣の家がツゲやってる」
デンさんが僕に言った。デンさんに見られるとむずむずした。つげ?と聞くと、デンさんは、うん、と言う。「ツゲは、バラと相性悪い植物」と。あっ、と思った。それで、この家のか弱い花は、死んでしまったのかもしれない。キンメイツゲはどこからともなく生えてくる低い木で、バラの根張りを邪魔することはなんとなく知っていた。この家が死んでから、隣の家はツゲを植えたんだろうか。家を手入れする人がいなくなっても、バラは生きていたんだろうか。バラなんて難しそうな花は、庭木くらいで死んでしまうのだろう、そう思うと、あんまりだった。なおみは気難しい、とよく父さんにからかわれ、父さんに言われたくない、とすぐに嫌味を言う自分がもっと腹立たしかった。デンさんのようにどっしり構えていたかった。デンさんに話を聞いて欲しかった。
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「2階のベランダでバラやろうか」
デンさんはそう言いながら、アーチに巻きついているツルや細い木を丁寧にペリカンばさみで切っていっていた。バラなんて弱いの、俺らに育てられるわけないじゃん、と憎まれ口を叩くと、デンさんは「いや、バラは丈夫だよ」と言った。ちょっと驚いた。「手間がかかるって言われがちだけど、場所にあった種類をきちんと選ぶと結構楽しくできるんだよ。新苗は数年かかるけど土に根付き易いから、アーチのツルはこのままにして、とりあえず大苗を買いに行こうか」と言った。いつものデンさんより、少し興奮しながら、バラについて語るデンさんが、可愛かった。彼は「俺は結構手をかけるのが好きだから、バラ結構好き」と言った。「気難しくて、手がかかるよーなものが?」と聞くと、「気難しくて手がかかるっていうのは、誠実ってことなんだよ」とにこにこしている。誠実。「誠実さっていうのは才能さ」と、デンさんに言われる。明らかに、まっすぐに、僕の心に入ってくる言葉。おろおろしてしまった。デンさん、まだ冬じゃないけど、プランターをたくさん買おうぜ。1年目の蕾は、ちゃんと剪定しよう。お金がかかるけど、肥料をきちんとやろう。僕とデンさんと、そして父さんのベランダを、バラでいっぱいにしたい。そして寝転がって、一階の雑草を見下ろし、しめ縄を新調した木を眺めて、目を閉じよう。僕は、僕たちのベランダのために、勉強して、働いて、汗を流したかったのだと気付いた。僕を「丈夫」にしてくれた二人の男達のために、とびきり綺麗なピンクと白とミックスのバラを育てて、コーヒーを飲むのだ。デンさんの首筋には汗が、僕の目には涙が溜まって、自分自身を肯定するまっすぐな気持ちが育まれはじめていた。
(2018.08 「便箋BL」)
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