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[CV-PDF]

 

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきました。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、“見る”事と”見られる”ことを事を繋げること・それらにつきまとう事情と矛盾です。空間の中に身体を置いたとき、私はその場に深く埋められた過去を発掘調査するように感じています。そして、ギミックを用いたとき、未来から流れ込んでくる時間と今この瞬間の時間の断面を制作しているのです。パフォーマンスが、今この瞬間にしか存在しないにも関わらず、多くの人が「今を見る」ことに魅了されるのは、人間が「今」を発掘するために、自身の身体の中を深く探っていく行為が、パフォーマンスだからにほかなりません。パフォーマンスの深淵は、いつも私たちをじっと見つめているものなのです。

ギミックについて。いつも新しい試みに挑戦していますが、過去の挑戦の傾向を書き出します。

・入水自殺した遊女がモチーフ。川の流れに逆行する歩行パフォーマンス。記録映像を撮る。逆再生する。

・船上で殺された遊女高尾がモチーフ。反魂香を引用し、後ろ歩きのパフォーマンスを行う。ビデオに撮る。逆再生して見せる。歩いた参道を見せる。(キュレーター黒瀬氏・井戸氏が会場設計)

・ナルキッソスが変身した「水仙」になる。変身の過程を化粧や着替えを含めて見せる。

 

The abyss of performance

Performers are seen. Simultaneously participants are seen by the performer. At any time, the performance is established by being seen.
Turn things around and the performance is seeing participants and a performer.
The act of “seeing” cannot be separated from the thought of the brain.
“When I was a child, I memorized what I saw for the first time in my brain. For example I might say to myself “this is a  chair.” This kind of procedure helped me to identify objects I encountered in daily life.
To see is to understand. To see is to classify. It is as if we have a genre-classifying folder in the brain, but then suddenly when we come up against a work which we cannot classify, which we cannot divide into genres, it is useful to have an “unclassified” place to slot it. The area that our “unclassified “ category covers however, cannot be too vast, otherwise too much will be swallowed up in this nondescript place.
Concerning sympathy….we can construct “sympathy folders” which will contain our expressions of sympathy towards them.
I started acting and I have created performance and visual art. What I am always interested in is a contradiction that exists
within the concept of “seeing”. Performance is unclassified and yet we can not see without classification. We are being seen,always, by the gentle and dreadful abyss of performance.

 

 

 

「パフォーマンスという深淵」(Long)

パフォーマーは、見られている。同時に、観客もパフォーマーに見られている。いつでも、パフォーマンスは見られることで成立します。ひっくり返して言えば、パフォーマンスが、私たちパフォーマーと、観客を見ているのです。

“見る”行為は脳の思考と切り離せない。
子どもの頃、はいはいをして進む度に景色は変わって行った。目の前にあった大きな椅子の足が、すこし椅子から離れると小さく見えた。今では遠近法やパースなどを理解しているから、理屈はわかる。しかし、自身の位置によって目の前にある椅子すらも刻々と姿が変わる様に知覚する。すると、一つの椅子として認識出来ない。これでは日常生活を送る事ができない。困る。だから、“これは椅子だ”と括ることを覚える。一度飲み込めないものでもとりあえず“見た”ことにしておく。よって、見る事は分かることであり、分類である。
まるで脳の中にジャンル分けのフォルダーを持っているようだ。
脳の中でのフォルダー分けについてもう少し触れておく。さっきの椅子の例では「見ること」は思考が切り離せない、とした。では、「見た」ものの思考整理についてはどうだろうか。例えばブログを書く時。自身でフォルダ分けする人は多い。「花火の思い出」「友達の家で」などと振り分けて行っても、ふとジャンル分けしきれない記事にぶつかることがある。そのような時、「未分類」に振り分けておくと、後々テーマを決めることもできて便利ではないだろうか。私は映像記録をパソコンに保存する時、いつもシリーズによって分類する。「あれ、これはどのシリーズに入れようと思っていたかな?」と思い出せない時、賢いパーソナルコンピューターは、“「未分類」に振り分けますか?”と、私に問う。慌てた私は”はい”を選び、それを「未分類」と名付けてしまう。
これは「この作品は分類しきれない」と決断することと同じだ。他に分類したつもりの作品も、実は分類なんかしきれていないんじゃないか、という一抹の不安が頭をかすめる。未分類とは、分類しきれなかったものであり、実際「フォルダー分けせずにただ見る」ことを許すフォルダーだ。

同情心について。シンパシーであれば、他人のフォルダーを閲覧し、可哀そうだと思うだけで良いですが、エンパシーは、他人の痛みのフォルダーが、自分のフォルダーそのものになってしまいます。このように同化してしまう時、精神がどうにかならないように、私たちは冷静に、「見る」ことに立ち返らなければいけません。「見られ」ながら、「見る」こと。自らを自分としてまとまりもたせる“役”を用意する必要があります。

このように、未分類は分類しきれなかった“わけがわからないもの”だけがパフォーマンスである。しかし、見ることによってのみ、パフォーマンスは成立する。この矛盾を同時に成立させる現象が、「パフォーマンスに見られている」である。

 

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきました。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、“見る”事につきまとう矛盾です。パフォーマンスは、未分類だけれど、分類しなければ私たちは見ることができない。私たちは見られている、いつも、優しくて恐ろしい、パフォーマンスという深淵に。

 

2017年4月3日 金藤みなみ(2013年「パフォーマンスの未分類」より抜粋と追記によるステイトメント。)
修士論文:『パフォーマンスの未分類』

 

以下は、その時々に考えていたこと。

2017, The abyss called the Performance(short)

パフォーマーは、見られている。同時に、観客もパフォーマーに見られている。いつでも、パフォーマンスは見られることで成立します。ひっくり返して言えば、パフォーマンスが、私たちパフォーマーと、観客を見ているのです。

“見る”行為は脳の思考と切り離せません。
子どもの頃、日常生活を送る為に、初めて見たものを脳の中で“これは椅子だ”というように、括ることを覚えます。見る事は分かることであり、分類です。まるで脳の中にジャンル分けのフォルダーを持っているようです。ふと、ジャンル分けしきれない作品にぶつかった時、「未分類」に振り分けておくと、後々便利です。ただし、未分類が膨れ上がれば、私たちはそれを認識することはできません。未分類に飲み込まれてはいけないのです。けれど、同時に、未分類を作らなければ、私たちは活動を進めることができません。

同情心について。シンパシーであれば、他人のフォルダーを閲覧し、可哀そうだと思うだけで良いですが、エンパシーは、他人の痛みのフォルダーが、自分のフォルダーそのものになってしまいます。このように同化してしまう時、精神がどうにかならないように、私たちは冷静に、「見る」ことに立ち返らなければいけません。「見られ」ながら、「見る」こと。自らを自分としてまとまりもたせる“役”を用意する必要があります。

私は役者として活動を始め、パフォーマンス及びヴィジュアルアートを制作してきました。表現をする上で、いつも関心を寄せていることは、“見る”事につきまとう矛盾です。パフォーマンスは、未分類だけれど、分類しなければ私たちは見ることができない。私たちは見られている、いつも、優しくて恐ろしい、パフォーマンスという深淵に。
3.April.2017

2017, terrible love

酷い愛
他者の痛みに同情心を持つ自分自身に後ろめたさを感じる。
後ろめたさの中にしか美しさは無い、と仮定する。
人間にとっての隠す・すり替える・変化する行為を劇の暴力性をもってなぞり、酷い愛、を「芸術」として提出する。 2017.2.26

2016, Removing the junk

人間にまとわりつく『屑』を引き剥がす。
装身具(デコレーション)とパフォーマンスを用いて、「他者の痛みと同情(シンパシー)」を主題に、歴史的な重みのあるものをエレガントでチャーミングなモノに変える。
・突然モンスターに変身する
・他者の思想にトランスフォームする
・すべてが後ろ向きに帰っていく
“Removing the layers of 'junk' surrounding people.”
・Sudden transformation into a monster
・transformation into other’s thought
・Everything goes back home

2015, Exporting Complexes-Emphasizing, recording, and considering

As expressions of transformation are important to Japanese culture, the country's characters and cosplay have been in recent years increasingly exported abroad. Beasts and avatars with human minds are returning to fill the streets.
But are these things being exported accurately? Our bodies undergo a daily process of transformation and renewal through our personal circumstances and complexes, and when we face the pains of others or consider the human condition, we are in the middle of that constant process. In other words people enjoy cosplay while carrying the confusion and complexes, the negative emotions, of their original selves. Their initial goal is to hide these things.
Approaching the culture simply as an outside admirer, one can fail to examine these original selves and overlook the true purpose behind the whole culture. In reality, it is not mere imitation, but rather a way of creating a better version of oneself in DIY form while preserving one's own identity, a kind of makeup applied to their original selves or a "selfie." I will look into the actions that are taken to preserve this kind of complexly intertwined movement. Avoiding the surface of cultural exportation, I want to deal with the universal beauty to be found in the more fundamental desire for human self-expression.
Opening up new paths in the context of recent experiments at the MOMA and TATE in preserving their performance collection that have attracted notice, I want to transmit these things to people, primarily the artists and curators of Japan, connecting them to that lineage.
Also, regarding these expressions of transformation which form a representative part of both Japanese and American cultural expressions, I will add my investigations coming out of my exhibitions which have focused primarily on interviews, coverings, and the creation of masks.
In this way, by classifying and considering the movement, I can record the context for these expressions of transformation and help to preserve its important works. Also, as these expressions are something that comes from the individual, that person will create something that has their own personality, making more deeply original creations possible.
To this point, I have created many works on a foundation of dialogue and the formation of relationships. More importantly, I am proud to have created, in my collections and projects, something which forms a historically important monument and a bridge to these works, with conferences, consideration, and through experience coming from the actual creation of works, all in regards to the question of how to preserve a performance that would appear difficult to capture.
That is why, through my works, I want to help our two countries to consider those things which humans attempt to conceal or change.

コンプレックスを輸出する — 強調する、記録する、そして考える

 変身表現は日本文化にとって重要なもので、近年ではキャラクターやコスプレの海外輸出が盛んです。人間のような心をもった妖怪やアバターが 街には溢れ帰っています。
 しかし、それはきちんと輸出していることになるのでしょうか。私たちの身体は、個人の事情やコンプレックスにより、日々変身と改善を繰り返し、時には他者の苦痛へのまなざしや人間の条件を考え、絶えざる変化の中にいます。つまり、人は元の姿への戸惑いやコンプレックスといったマイナスの感情を持ってコスプレに興じることもあるのです。そもそも、隠すという行為が目的でもあるのです。
 憧れに近づくだけの文化として捉えると、元の姿を吟味する側面を見逃し、この文化の真意を見逃してしまいます。実際は、単なる模倣ではなく、自分の元の姿を基盤としたメイク方法や、『自撮り』のように自分自身であるというアイデンティティを保ちながらよりよい自分自身をDIY形式で創り出すような方法があります。このように複雑に絡み合ったムーブメントを保存するような動きを検討します。表面的な文化輸出を避け、より根源的な人間の表現欲求を見つめることで、普遍的な美に取り組みます。
 この事で、近年MOMAやTATEで注目されているパフォーマンスをコレクションとして保管するような試みの文脈に則った道筋を新たに創り出し、日本のアーティスト・キュレーターを中心とした人々に伝えることで、系譜をつなぎます。
 また、変身表現という日本及び米国の代表的な文化類型について、インタビュー及びかぶり物やマスクの制作を中心とした展示による検討を加えます。
 このように、ムーブメントを分類して考えることで、変身表現の文脈を記録し、重要な作品を保管することにつながります。また、そのような表現を実際に自身が行うことによって、当事者性を持った作品制作を行い、より深みとオリジナリティーのある作品づくりが可能になります。
 私はこれまでに、対話と関係性づくりを基盤とした作品制作を多く行ってきました。その上で、一見保管が難しいパフォーマンスを『いかに保存するか』について、カンファレンスなどを開き、考え、作品制作によって実践して来た経験をもとに、プロジェクト型の作品とコレクションとして歴史的に重要な碑となる作品を繋げる架け橋となる自負があります。
 だからこそ、私の作品によって、人間にとっての隠すや変化するということをより深くお互いの国が考えることができるようにしたいと考えています。

2014, Will I be beautiful or ugly tomorrow?

Will I be beautiful or ugly tomorrow? 
What torments us is the problem of ''the consistency of our sense of aesthetic self-worth.''  
With the development of things like fashion trends and selfie culture our sense of aesthetic self-worth falls under an external influence and is repeatedly lost. 
By arbitrarily substituting other people's body images, I am arbitrarily rewriting their aesthetic images. 
In addition, while they're deliberately associated with images of performance acts such as the demonstration and expression of pain, they are regarded as something different. 
When we cannot overcome the hesitation of deciding whether something can or cannot be replaced, we make a consistent replacement in the form of Art.
明日の私は美しいだろうか醜いだろうか
私たちを悩ませることは«自己の美意識の一貫性»の問題です。
自己の美意識は、ファッションやSelfie Cultureの発達のようにあらゆる他者から影響を受け、消失を繰り返しています。
私は、他者の身体イメージを恣意的に置換することによって他者の美的イメージを恣意的に編集します。
また、痛みの表明やデモなどのパフォーマンス行為のイメージを意図的になぞらえながら別のものに見立てます。
私たちは何かに置き換わることができ、かつできないという逡巡を、一貫性と置き換えによってアートにします。

2013, Removing the layers of ‘junk’ surrounding people

Walking While Covered."Removing the layers of 'junk' surrounding people"
This work treats transformation and makes use of my earlier themes, "removing coverings (clothing) from the body" and "unclassified performance areas."
Its theme is the layers of "junk" (everyday conflicts) that people use to cover (clothe) themselves, and how important it is, once named "junk" and classified, to remove them from the body.
かづき歩きするということ
“人間にまとわりつく『屑』を引き剥がす”
 私はこれまでに「かづく(かぶる)身体の剥離」「パフォーマンスの未分類」というテーマで主にトランスフォームを媒介とした作品を制作してきました。
 このテーマは人間にまとわりつく『屑=日々の葛藤』をかづかせ(かぶらせ)ることによって、『屑』に形を与え名前をつけて分類し、身体から引き剥がすことが重要です。

2011,Chimera

I.あるはずの風景を疾走しつづけるなくしもの。

II.損なわれた部品をひっそり(うっかり) とキッチュにすり替えて粘着。

III.日常に潜む心地悪さとささやかな安定感の境界線を緩やかに犯す。
I was born in a forest in Japan.
During my childhood,I was scared that my body might be cut down by a woodcutter.
Therefore,I started being interested in my existence as a person. Who can replace me? Can I get a new life?
"Objectivity" and "Oneness" is important in my work. How people see other people and how they react to other people's existence.
This  is my work, "Achela"."Achela "is a creature that I made fictionally. I was inspired by a Japanese monster.
This monster is often in a Japanese house,
looking like 10 year's old girl.It is said, she brings happiness.
But she is an invisible girl. Someone can see her,but others can not see.
This story taught us that happiness is found by the people who watch the world carefully. In the movie, some people look at Achela,but others do not.
I did this performance in Tokyo, Korea and so on.
In Tokyo,she looks like an invisible creature.
Tokyo people are shy.They do not care about her.
In Korea,people speak to her all the time.
In Helsinki, she looks like a christmas decoration. In the snow, they care about her body.
It was interesting to see how people acted in different situations.
For me, Achela started to look more three dimensional with those videos in different places.
Perhaps, she might eventually start walking out of the frame, out of the visual world into reality.

 

2010, As if you see my work feel you are seen.

Because my work has a naked body.A face, naked foots and naked boobs watch the audience.Though you think “it is walking straight” is going back and desire of seeing turn over.You have to realize you looks as if you are seen side.
見たいという欲求と反転する関係
私の作品を見た人は、「見られている」感覚を覚える。それは私の作品には剥き出しの顔があるからだ。顔は交感器官で、鑑賞者を見つめかえす。前進だと思っていたら車や人が反対に走って逆走していたり、見たいと言う欲求が反転したりする。見ている側だと思っていたら、見られている側にいつの間にか反転し、ただの鑑賞者ではいられなくなる。